聖ホセマリアの生涯-56

1946年6月21日、聖ホセマリアはオプス・デイについてのローマ教皇庁の認可を得るべく、バルセローナを出帆しますが、大嵐に見舞われます。

ピオ12世が聖ホセマリアに贈った自筆のサインつきの写真

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6月21日夕方、聖ホセマリアはバルセローナを出帆しました。夕食の後、風と波が徐々に激しくなり、この季節には珍しい大嵐になりました。嵐は20時間ほど続き神父は一睡も出来ずに翌日の夜にジェノバに到着。迎えに来ていたドン・アルバロともう一人とともにホテルに宿泊。翌朝近くの教会でミサを立て、すぐ借りた車でローマに向かいました。

ローマに着いたのはすでに夜。バチカン広場のすぐ近くのアパートに泊まりました。夕食を済ませた人々は旅行の疲れですぐに寝てしまいました。アパートのベランダから教皇の書斎の窓から光が漏れるのが見えました。聖ホセマリアはローマ教皇を「地上の甘美なキリスト」と呼び深い愛を抱いていました。若い司祭のときマドリードの街路をロザリオを唱えながら、よく教皇の手から聖体をうけることを想像していました。今その教皇様が目と鼻の先におられるのです。深い感動に動かされて、ベランダから一晩中教皇のために祈って夜を明かしました。

パドレに助けの手を差し伸べたくれた最初の人は、国務長官のモンティーニ枢機卿(のちの教皇パウロ6世)でした。すでにドン・アルバロと親しくなっていた枢機卿は、バチカンの多くの著名人にパドレを紹介してくれました。7月16日、教皇ピオ12世との謁見があり、パドレは子どもが父親にするように心の中にあることをすべて打ち明けました。

第二次世界大戦前後から教会の中で伝統的な修道会とは異なる活動が生まれ始めていました。それらを組織として認めることを求める声が教皇庁に届いていました。それはまだ修道会的な性格を残していてオプス・デイの本質とは完全には相容れないのですが、オプス・デイがその中に入る可能性はありました。その組織の在り方に関する法律文書の作成が始められ、聖ホセマリアは協力を惜しみませんでした。しかし、夏休み前には終わりませんでした。パドレは8月の末にスペインに戻ります。ただ、教皇庁はオプス・デイの目的は賞賛に値すると宣言する文書を渡してくれました。これはオプス・デイを認可するのと同じでした。後は、新しい組織を定める法律文書が完成するのを待つばかりです。

尾崎明夫