新司祭たちは各自に任せられた仕事に明け暮れました。ただ、聖ホセマリアの仕事量はそれによって減ったわけではありません。相変わらず大勢の人の霊的な指導や黙想会の指導も続けていました。しかし、1944年、その仕事ぶりに陰りが見え始めました。体調を崩したのです。少しでも回復するとまた普段のペースで仕事をするのですが、10月前半にある修道会の会員のために8日間の黙想会を指導していたとき40度の熱が出ました。超人的な努力でその黙想会を終えた後、医者の診察を受けました。それは熱の他に疲労、化膿、喉の渇き、肥満などの症状が出ていたからです。診断の結果は深刻な糖尿病というものでした。
しかし、創立者は休みません。スペインには独自の歴史をもつ様々な地方があり、それぞれ大学をもつ首都のような都市があります。知識人への司牧を重要視していた聖ホセマリアはこれらの町に学生寮を作る計画を温めていました。すでにセンターがあったカタルーニャやバスコ地方などスペインの中部北部の中心都市を始め、まだセンターのなかった南部アンダルシーア地方のセビーリャやグラナダという大学都市に学生寮を作るための許可を得るため奔走したのです。
この旅行にはもう一つの目的がありました。各地の司教を訪問し、司教たちからオプス・デイを推薦してもらう文書をもらうことです。この推薦状を添えて、ローマ教皇庁に正式な認可を求めようと考えていたのです。それはオプス・デイがスペインだけでなく全世界で活動ができるためにはどうしても必要でした。
1945年2月創立者はポルトガルに足を運びました。スペイン北部のガリシア地方にいたシスター・ルシア(1917年ポルトガルのファティマで聖母マリアが出現された三人の牧童の一人)が聖ホセマリアに自国でオプス・デイを始めるよう強く頼んだからです。こうして1946年、初めての海外のセンターがポルトガルに生まれました。(写真。ファティマで聖母を見た牧童ヤシンタとフランシスコの兄弟の母堂と聖ホセマリア一行)