聖ホセマリアの生涯-2

子どもの頃の十字架:妹たち三人が亡くなって、家族は故郷のバルバストロを離れログローニョに移住しました。

子どもと若いホセマリアの写真

ホセマリアが8歳のときから3年の間に、3人の妹が下から順番に亡くなりました。悲しみの中にあった家族をさらに不幸が襲います。1914年の秋、父ホセ氏の会社が破産したのです。それは当時の不況の影響もありますが、会社の同僚の不正行為が直接の原因でした。この事態に対してホセ氏がとった態度は立派でした。まず責任者を赦しました。家族内では恨みが生まれないようにこの話題を避けます。そして会社の財産では債権者に負債を支払うことができなかったので、自分の財産でもってそれを返済する義務があるかどうかを司祭に相談しました。その義務はないとことでしたが、自己の信念に基づいて負債を全額支払うために己の財産を手放したのです。こうして裕福であった家庭は、一挙に一文無しになってしまいました。

貧しくなると家族を取り巻く人々の態度も変わっていきました。特に母の親族は、ホセ氏の「理想主義を非難しました。母の兄は「あいつは愚かだ。何一つ不足ない生活を続けることができたのに、その反対に最低の暮らしをするようになった」と言っていました。

しかし、家族はこの家長のとった高貴な行動を誇らしく思いました。後年ホセマリアはこう父を誉めています。「私は父を心の底から愛しています。父は天国のとても高いところにいると思います。なぜなら貧しい生活の苦しさと屈辱を真正面から受け入れ、堂々とキリスト教的な生き方を貫いたからです」。

親族は貧しくなったエスクリバー家から距離を置くようになりました。また不正を働いた人たちと同じ町に暮らし続けることも難しいことでした。そこで、一家は住み慣れたバルバストロを離れて、父の友人の誘いを頼ってログローニョという町に引っ越しました。

ホセマリアは短期間に矢継ぎ早に起こった不幸に深く傷つきました。このころは以前のように父親に心を開くことをしなくなり、「なぜ善良な人が苦しみ、悪い人たちが幸福そうに暮らすのか」という問題を深く考えたようです。また持ち前の強い性格から怒りが爆発することもありました。神はこのような不幸によって彼を鍛えて行かれたのです。

1915年9月、ホセマリア一家は故郷のバルバストロを離れログローニョに移住しました。この町はワインで有名なリオハ地方の首都です。ホセ氏は友人の経営する衣料店で店員として働くことになりました。しかし、給与は少なく家には隅々まで倹約の精神がしみ通っていました。父は社交界に出入りするのを止め、たばこの数を減らし、母は姉とともに家事に専念しました。

この貧しさに雄々しく立ち向かう両親の姿が、思春期に入ったホセマリアを苦しめました。なぜ神は正しい人を苦しませるのかが彼の頭を悩まし続け、父親との打ち明け話もしなくなりました。当時、二枚の日本の絵に慰められたそうです。一つの絵は「高慢な人」と題され、高い棒の先に明るいランプが輝き、その下に食卓を囲んでいる家族がいた。その光は遠くからもよく見えたが、近づいてみると家族の雰囲気は冷たく光もなかった。もう一つの絵は「賢い人」と題され、家族が取り囲んでいる食卓の中心に灯がともっていた。光は慎ましいものだったが、家族の温かさが伝わってきた、というものです。きっと自分の家族と似ていると感じたのでしょう。

ホセマリアは公立学校に転入し、勉強にも精を出します。その人の良さとユーモアによって、多くの友達を作っていきました。両親の忍耐と愛情のおかげで思春期の危機が静まると、再び父に心を開くようになりました。当時の最大のテーマが進路の問題でした。息子は建築家になりたいと打ち明けます。息子が文学や歴史が好きで、人づきあいも上手であったことを評価していた父親は、さりげなく弁護士の道に目を向けさせようとしました。建築のコースは長くてお金もかかるものだったからです。若いホセマリアはこの事情を理解せず、自分の意志を曲げません。父は黙ってそれを聞いてくれました。息子は後年こう言っています。「両親は・・・私に大学進学を考えてくれました。どんな仕事でもいいから働いてお金を稼いでくれと言われても、まったく文句に言える立場ではなかったのに」。

しかし、神は彼にまったく別の道を用意していました。