皆さん、兄弟である人々のいるところ、希望の実現をめざして仕事に従事し、愛情を捧げるところ、これこそ皆さんが日々キリストと出会うところです。この世の最も物質的なものの真っ只中こそ、神と人々に仕えて自らを聖化すべきところなのです。
私が聖書の言葉を使って常に教えているように、世界は良いものです。それは神の御手から出たもの、神の被造物であり、神なるヤーウェがご覧になり、「よし」と思われたからです[1]。良い世界を悪いもの、醜いものとしたのは、人間の罪と不信仰です。皆さん、決して疑わないでください。この世に属する皆さんのような男女が、日常の正当な諸現実から逃げ出すようなことがあれば、それは神のみ旨に反する生き方になります。
逆に、人間生活の社会的、物質的、世俗的な仕事の〈中〉で、それらを〈通して〉、神に仕えるよう招かれていることを、いま改めてはっきり理解していただかなければなりません。研究所、病院の手術室、兵舎、大学の教壇、工場、作業場、田畑、家庭、その他広範にわたるあらゆる種類の仕事の中で、神は日々私たちを待っておられます。ぜひ知っておいてください。ごくありふれた状況の中に、聖なること、神的なものが隠れています。そして、それを見つけ出すのは、私たち一人ひとりの責任なのです。
1930年頃、私のもとに来ていた学生や労働者に、霊的生活を〈物質化〉できなければならないと教えていました。当時も今も頻繁に見られる一種の二重生活への誘惑から守りたいと望んでいたのです。すなわち、一方では、内的生活、神と関係を保つ生活を営み、他方では、それとは係わりない全く別の生活、現在の些細な事柄に満ちた家庭生活や職業生活、社会生活を営む誘惑です。
皆さん、二重生活は避けてください。二重生活を送るべきではありません。キリスト信者でありたければ、分裂した生活を送ってはならないのです。あるのはただ一つ、霊と肉からなる生活です。このたった一つの生活が神に満ちたものとなり、霊魂とからだ両方を聖化するものでなければなりません。そして、目に見えない神に出会うのは、この最も目に見えやすい物質的な事柄の中においてなのです。
皆さん、平凡な日常生活の中で主に出会うことができるか、いつまで経っても出会わないか、これ以外に道はありません。それゆえ私たちは今、ごくありふれたものや状況に、本来の高貴な意味を取リ戻させ、神の国に役立たせ、霊的なものにする必要があると言えます。それには、すべてをイエス・キリストとの絶え間ない出会いの手段とし、機会にしなければなりません。
すべての体の復活を信仰告白する真のキリスト教は、物質的だというレッテルを貼られるのを恐れず、「体から離れた純霊説」とは、当然ながらいつも対立してきました。そこで、霊魂には扉を閉ざす物質主義と真っ向から対立した「キリスト教的物質主義」とも称すべき立場を主張できると考えます。
昔の人が受肉された〈みことば〉の足跡と称した秘跡は、私たちを聖化して天国へ連れていくために、神が選ばれた道をはっきリ示すものであることに、疑いの余地はありません。各々の秘跡は、創造する力と購う力をすべて備えた神の愛であり、物質的な手段を使って私たちに与えられることもお分かりでしょう。これから始まるユーカリスチア(聖体の祭儀)とは、購い主の尊い御体と御血にほかなりません。私たちはそれを、最近の公会議が指摘したように「人間が栽培する自然のもの」[2](大地の恵み、労働の実り)であるこの世の慎ましい材料、パンとぶどう酒という形で受け取ります。
「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」[3]と、使徒聖パウロの書いたわけが分かるのではないでしょうか。私たちの心に注がれた聖霊がこの世で興す動き、地上から主の栄光に向かう上昇運動について述べているのです。そして、聖パウロはその動きの中にいかにも平凡な事柄が含まれていることを明らかにするため、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」[4]と書き記しています。
ご存じのように、この聖書の教えは、オプス・デイの精神の核心をなすものです。この教えに従うなら、仕事を完全にやり遂げ、日々の些細な事柄に愛を込めることによって、神と人々を愛し、小さなことの中に隠れている〈聖なるもの〉を発見できるようになるでしょう。この意味で、あのカスティーリャ地方の詩人の言葉が見事に当てはまります。「ゆっくりと丁寧にやれば、良い出来映えにつながる」。(ゆっくりと丁寧に、何事であれ、成すだけでなく、仕方が大事)[5]。
皆さん、キリスト信者が、重要でないと思われる日常の事柄を愛の心で果たすなら、それは神的な値打ちに満ちたものになると保証します。だから私は、キリスト信者の召し出しとは毎日の散文を英雄詩に変えることだと、幾度となく繰り返してきたのです。天と地は地平線でひとつになるように見えますが、実はそうではありません。天と地が本当にひとつになるのは、日常生活を聖化しようとする皆さんの心の中なのです。
今、日常生活を聖化すると申しましたが、私はその言葉の中にキリスト信者の務めのすべてを含めています。無駄な夢を見たり、実現不可能な理想を育んだり、空想を描いたりするのはやめましょう。私はこの種のものに〈ないものねだり〉という名を付けました。結婚していなかったら、こんな仕事に就いていなかったら、もっと健康に恵まれていたら、もっと若かったら、もっと齢を重ねていたら、など。しかし、こんなことを考えず、主がおられるところ、つまり、もっと実質的でもっと身近な現実に真剣な態度で携わってください。復活されたイエスは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」[6]と、仰せになったではありませんか。
(聖ホセマリア・エスクリバー『教会を愛する』、精道教育促進協会、1992、pp. 83−87)
[1] 創世記1・7以下参照
[2] 第二バチカン公会議『現代世界憲章』38番
[3] 一コリント3・22ー23
[4] 同10・31
[5] A・マチャード、Poesías completas CLXI、『格言とうた』XXIV、Espasa-Calpe、 Madrid、1940
[6] ルカ24・39