三位一体の主日:ミサにおける三位一体との交わり

1960年4月14日、聖木曜日の説教において聖ホセマリアは御ミサにおいて実現する至聖三位一体との交わりについて説明しました。

三位一体
Plague Column, Vienna - Holy Trinity Viennpixelart, CC BY-SA 4.0. via Wikimedia Commons

「口よ、歌え、光栄ある聖体を。尊き母の御子・万民の主が、世の贖いのために流されたこの聖い御血の秘義を」1と、聖なるホスチアの前で、信者が昔から絶えず唱い続けてきた訳がよくわかります。隠れておいでになる神を恭々しく礼拝しなければなりません2。ご聖体は童貞マリアからお生まれになったイエス・キリストご自身、苦しみを受け、十字架につけられた御方、御脇腹を刺し貫かれ、血と水3とを流したイエス・キリストご自身であるからです。

これこそ、聖なる宴、キリストご自身を糧として受ける宴ですが、そこでは、主のご苦難が記念されるだけでなく、人が主と共に親しく神と交わり、来世の栄光の保証4を受けます。教会典礼のこの短い賛歌の中に、主の熱烈な愛の歴史のクライマックスが要約されているのです。

私たちの信じる神は、人間の運命、つまり努力や戦いや苦しみなどに関心を持たない遠く離れた御者ではありません。神は御父であって、ご自分の子どもたちに深い愛を示し、その愛ゆえに聖三位一体の第二のペルソナであるみ言葉さえ遣わされました。人となられたみ言葉は、私たちを救うために死去されたのです。そして今、慈悲深い御父ご自身が、私たちの心の中にお住まいになる聖霊の働きを通して、私たちをご自分の方へ優しく引き寄せてくださいます。

聖木曜日の喜びは、創造主が被造物に溢れんばかりの愛情を注いでくださることを理解するところから生まれます。主イエス・キリストは、これまでのたくさんの慈愛に満ちた行いもまだ不十分であるかのように、ご聖体を制定され、私たちが主のお傍にいることができるようにしてくださったのです。なぜそれほどの愛をお示しになるのか、その理由を知るのは難しいことですが、何も必要となさらない御方が愛に動かされ、私たちを放置したくないとお考えになっていることだけはわかります。三位一体の神は人間を愛し、恩恵の状態に高め、ご自分の「かたどり・似姿」(創世記1・26)としてくださったのです。アダムが犯しすべての子孫に継がれた罪と、自罪を赦し、私たちの霊魂内に住まおうと強くお望みになったのです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)。

三位一体の神はご聖体という得も言われぬ方法を通して、人間にその愛を注ぎ続けられます。ご聖体は犠牲であると共に秘跡であると、昔カトリック要理で習ったものです。秘跡としては、聖体拝領と祭壇上の宝物、つまり聖櫃の宝物として示されます。世界中の聖櫃に現存するキリストの御体のために、教会は特に聖体の大祝日を定めました。聖木曜日である今日は、犠牲であり霊魂の糧であるご聖体、ごミサ、聖体拝領について考えてみたいと思います。

聖三位一体の人間に対する愛について前に話していましたが、ごミサこそ三位一体の神の愛を知る最良の場と言えます。祭壇の聖なる犠牲においては、聖三位一体が活動なさるからです。それゆえ、集会祈願や密誦5、聖体拝領前の祈りの最後に、御父に向かって、「聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」と繰り返すのは、私にとって大きな魅力となっています。

ごミサの中で絶え間なく御父に懇願します。司祭は、永遠の司祭であると同時にいけにえであるイエス・キリストの代理者です。ごミサにおける聖霊もまた同じように素晴らしく確かな働きをされるのです。「聖霊のおかげで、パンがキリストの御体に聖変化される」6とダマスコの聖ヨハネが書いているように。

この聖霊の働きは、司祭が供え物を祝福する時に、はっきりと現れます。「聖としてくださる全能の神、おいでください。聖なるみ名のために供えられたこのいけにえを祝福してください」7。私たちが願う内的聖化は、御父と御子がお遣わしになる聖霊の働きに帰せられています。また、聖体拝領の少し前に、「神の子、主イエス・キリスト、あなたは父のみ心に従い、聖霊に支えられ、死を通して世にいのちをお与えになりました(…)」8と祈るとき、犠牲の中にこの聖霊の生き生きとした働きを認めることができるのです。

聖三位一体全体が祭壇の犠牲において現存されますが、御父のみ旨に従って、聖霊と共に、御子が救いの供え物として捧げられます。至聖なる三位一体、唯一にして三位なる神、唯一の本性と愛を有し、聖化の働きにおいても一致を保つ神の三つのペルソナ(位格)と親しく交わることができるようになりたいものです。

奉献の後の、指の清めのすぐ後で、司祭は次のように祈ります。「聖なる三位一体の神、わたしたちの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念としてささげるこの供え物をお受けください」9、そしてごミサの終わりには、聖三位一体に尊敬を表す素晴らしい祈りを唱えます。「聖なる三位一体の神、しもべであるわたしの奉仕のわざをこころよくお受けください。値打ちのないわたしが敢えてみ前にお捧げするこのいけにえをお喜びください。御いつくしみによって、わたしとわたしが捧げたすべての人々のために快くお受け入れください」10

繰り返し申しますが、ごミサは三位一体の神の働きであって人間の働きではないのです。ごミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主のみ旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナとキリストのみ名において振る舞うのです。

人間を愛しておられる三位一体の神は、ご聖体に現存するキリストを通して、教会のため、人類のためのあらゆる恩恵を与えてくださいます。マラキが預言した犠牲はこのご聖体のことなのです。「日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」(マラキ1・11)。聖霊と共に御父に捧げられるキリストの犠牲であり、無限の価値を有する奉献であって、旧約の犠牲では獲得できなかった救いがこの犠牲により、私たちの中で永遠に続くものとなるのです。

ミサにおいて、聖三位一体ご自身が教会に与えられますから、ごミサによって私たちは信仰の主要な秘義に導かれることになります。こうして、ごミサはカトリック信者の霊的生活の中心であり根源であることがよくわかります。ごミサはすべての秘跡が目指す秘跡です11。洗礼において与えられ、堅信によって強められ成長した恩恵の生活は、ごミサによって絶頂に達するのです。「ご聖体にあずかることによって、聖霊が私たちを神化してくださっていると感じます。ごミサにおいて聖霊は、洗礼の時のようにただ単にキリストに同化させるだけでなく、私たちをキリストに結びつけ、完全にキリスト化させてくださるのです」12と、エルサレムの聖キリルスは述べています。

聖霊を注がれ、キリスト化された私たちは、自分が神の子であることを自覚するのです。愛そのものである聖霊は、私たちが愛に基づいて生活全体を築きあげるようにと教えてくださいます。そして、キリストと「完全に一つに」(ヨハネ17・23)なれば、聖アウグスチヌスが聖体について述べているように、私たちは「一致の印、愛のきずな」13になることができるのです。

ある信者にとってごミサは、社会の因襲とまでは言わなくても、単なる外面的な儀式に過ぎず、またある人はごミサについて極めて貧弱な考えしか持っていない、と私が述べても、別に変わったことを言っていることにはならないでしょう。私たちの心は全く哀れなもので、神がお与えになった最も偉大な賜物にさえも慣れてしまうのです。ごミサ、今捧げるこのごミサには、繰り返して申し上げますが、聖なる三位一体の神が特に介入なさいます。この深い愛に応えるために、心身共に、すべてを捧げる必要があります。神に耳を傾け、神に話しかけ、神を見、神を味わうのです。そして言葉に言い尽くせないときには、元気を出し、全人類に向かって主の偉大さを称え、「口よ、うたえ、光栄ある聖体を」と歌うのです。

(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』84ー87)


1賛歌『パンジェ・リングァ』

2聖トマス・アクィナス『アドロ・テ・デヴォーテ』参照

3『アヴェ・ヴェルム』参照

賛歌『オー・サクルム・コンヴィヴィウム』参照

5この説教が準備された時代のミサの祈りの一つ。

6ダマスコの聖ヨハネ、De fide ortodoxa,13(PG94,1139)

7ローマミサ典書、奉献の祈り(聖霊への祈り)

8ローマミサ典書、聖体拝領前の祈り

9ローマミサ典書、奉献の祈り(三位一体への祈り)

10ーマミサ典書、ミサの最後の祝福前の祈り

11聖トマス・アクィナス『神学大全』III, q. 65, a. 3

12エルサレムの聖キリルス、Catequeses 22, 3

13聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書についての注釈』26, 13(PL35, 1613)