人類の歴史は進歩と退歩を伴いながら絶えず変化していますが、18世紀末に起こったフランス革命以降この変化のスピードはますます加速して来ました。その変化の多くはカトリック教会には逆風になりました。それで教会がまず自己防衛の態度をとったことはある程度自然だといえます。しかし、新しい世界はもちろん積極的な面も持っていました。教会は、地の塩として世界に味を与える使命を持っています。それゆえ、新しい現代社会の明暗の中でも働き続けねばなりません。
第二バチカン公会議が開催されたのは、この問題を議論し、現代世界の中での教会の方向をはっきりさせるためでした。3年間の議論の実りとして多くの文書ができあがりました。しかし、すでに会議の途中から、この改革路線を利用して教会の過去をすべて否定しようとする動きが強くなりました。つまり、キリストから直接受けた不変の教えまで変えようというのです。不思議なことに、この動きは「第二バチカン公会議の精神」を名乗って、教会の中に深く広く浸透していったのです。かくして教会の教えが疑いの対象となり、多くの司祭や修道者が脱退、神学校が空っぽになるなど、考えられないような状態が出現しました。
この惨状を目の当たりにし聖ホセマリアの心は張り裂けんばかりになりました。あたかも自分の体の一部が痛むかのように「私は教会が痛い」と言うこともあり、よく涙を流すようになりました。この時期、実はオプス・デイの法律的な問題解決にも困難が湧き上がっており、そのうえ創立者自身も慢性の腎不全に苦しんでいました。
この逆境の中で、神父はまず祈りと犠牲を捧げました。西欧諸国にある聖母マリアゆかりの教会や小聖堂に巡礼。そして、「目立たず隠れる」という信条を撤回し、「真理を叫び知らせる」という方針を取りました。
1970年には大西洋を渡ってメキシコのグアダルーペの聖母に祈りに行きました。もちろん、メキシコや他のアメリカ諸国で働くメンバーとその友人たちに会うためでもあります。