カトリック信者はローマ教皇を「パパ様」と呼びます。これは教皇がキリストから首位権を授けられた使徒ペトロの後継者として教会を統治する役目を持っているのと同時に、信者全員の父のような存在であるからです。聖ホセマリアは、教皇に対するこの崇敬と子供として愛情を若いときから強く感じており、周囲にもこの信心を勧めていました。
創立者が初めて会った教皇がピオ12世(在位1938~58年)でした。ピオ12世は第二次世界大戦を教皇として経験し、ナチスのユダヤ人迫害を黙認したという中傷がありますが、実際はドイツ支配下のローマでユダヤ人救出にも尽力されました(『赤と黒の十字架』という映画を参照)。実際、ナチの迫害下で命の危険を犯してユダヤ人を守った人に与えられる「諸国民の中の正義の人」の称号をイスラエル政府から受けています。
1959年10月初旬、このピオ12世重篤とのニュースが広がりました。聖ホセマリアはすぐに教皇のために祈り、またオプス・デイのメンバーにも祈りを頼みました。教皇は9日早朝に息を引き取りました。9日間の喪の後、19日に葬儀ミサが挙げられました。冷戦のため共産党独裁下の東欧諸国から来ることができたのは、ポーランドのヴィシンスキー首都大司教のみで、政府の迫害から命をかけて教会を守ろうとしていたハンガリーのメンヅェンティー大司教やクロワチアのステピナツ枢機卿の姿はありませんでした。
その後、新教皇を選ぶ選挙(コンクラーベ)が招集されると、聖ホセマリアは、「新教皇が選ばれる前から、教皇を愛さねばならない」と周囲を励ましました。3日間選挙が繰り返された後の10月28日、選挙成立を知らせる白い煙がシスティーナ礼拝堂の煙突から上ると、創立者は新教皇の名前が発表される前に跪いて祈りました。
ヨハネ23世を名乗った新教皇は農民出身で、ブルガリアやトルコやギリシアで教皇の代理として働き、その気さくで優しい性格のおかげでカトリックとは冷たい関係にあったこれらの国々との関係を修復し、その後ヴェネツィア大司教になっていました。すでに77歳でしたが健康でした。翌年の1月、教皇は驚くべき宣言を出されました。公会議を開催すると発表されたのです。