聖ホセマリアの生涯-68

1957年、当時大阪の司教であった田口司教(出津出身)はローマを訪れ、ある枢機卿に関西でカトリックの大学を始めるという計画について助言を求めました。すると枢機卿は聖ホセマリアを紹介しました。

ホセ・ラモン・マドルガ神父
ホセ・ラモン・マドルガ神父

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1950年代にオプス・デイはヨーロッパとアメリカ大陸に広がっていきました。これらの国は程度の差こそあれキリスト教の伝統のある国々です。それに対してアジアとアフリカの諸国はほとんどがいわゆる宣教地でカトリック信者は少数でした。聖ホセマリアは若いときから宣教地のことを心にかけていて、そこに住むキリストを知らない人々に宣教する夢を持っていました。

1957年、当時大阪の司教であった田口司教(出津出身)はローマを訪れ、ある枢機卿に関西でカトリックの大学を始めるという計画について助言を求めました。すると枢機卿は聖ホセマリアを紹介しました。創立者は司教の望みに応えようと約束し、当時合衆国の地域代理であったホセ・ルイス・ムスキスを下見のために日本に送りました。1958年4月、ムスキス神父は日本に到着し、列島を旅行して日本の状況を調べました。その途中でローマに出した手紙が届いた時、聖ホセマリアは喜びのあまり「日本からの最初の手紙!聖マリア、海の星、あなたの子どもたちを守りたまえ」と封筒に書いたそうです。ムスキス神父は長崎も訪れました。創立者に是非殉教者の地に接吻するよう頼まれていたからです。

この報告を踏まえ、1958年11月8日、アメリカ合衆国からホセ・ラモン・マドルガ神父が来日しました。翌年には同じく合衆国から二人のスペイン人神父が到着しました。一人が精道学園の初代校長を務めたフェルナンド・アカソ神父です。すでにムスキス神父は日本には英会話の習得に関心が高いことを知りました。そこで芦屋に英会話学校を開きましたが、これは当時としては珍しくとても人気を博し学校は成長していきました。その後1962年には京都に学生寮を、1976年には長崎に、90年には大分にセンターができます。

聖ホセマリアは欧米とは全く異なる文化の国に働くメンバーを殊のほか気にかけ、絶えず慰めと励ましの言葉を送っていました。しかし、自ら日本の地を踏むことはありませんでした。この望みをかなえたのが後継者の福者アルバロです。1987年2月に来日し、長崎にも足を運び学校で児童生徒たちにもお話くださいました。

(このテーマについては、中井俊己著『天と地をつなぐ』により詳しく語られています)。

尾崎明夫