ドン・アルバロの大勢の友人の中に、ローマとナポリの間の海岸に広がるサルト・ディ・フォンディという農園を持っていた貴族がいました。彼はそれを売りたいと思っていました。そこでドン・アルバロはそれを買って、土地の大部分を小作農の人たちに安く売り、残りの土地にメンバーのための研修センターと農地にし、そこで取れる農産物をローマのセンターに送ろうと考えました。これによってローマ学院の経済的な困窮は少しでも解決するためです。戦後の不況の折で、土地が売却されるには二年かかりましたが、これで小作農家は小規模ながらも自分の土地を持ち、それを機械を使って耕し、そこで得た収穫から分割払いで支払いをしていきました。またローマのセンターにも少しづつ野菜や乳製品などが送られてくるようになりました。
他方、農家を研修センターにするには、女子の管理部が働けるように適切な工事をする必要がありました。この難しい仕事のため、聖ホセマリアは姉カルメンのことを考えました。カルメンはオプス・デイのいろんなセンターを立ち上げる仕事が一段落ついて、マドリードで弟サンチアゴと一緒に暮らしていました。その姉をイタリアに呼んで再びオプス・デイの手伝いを頼むのは、創立者にはとても心苦しいことでしたが、それ以外によい案はないのです。カルメンはすでに今まで何度もホセマリアからオプス・デイのための仕事を頼まれました。その度に最初は「嫌よ」と不機嫌に答えるのですが、すぐに身を粉にして働くのです。どれだけのセンターが彼女のお陰で家族的な雰囲気の家になったことでしょう。最初に断るのは自分がオプス・デイからは独立していることをはっきりさせるため、また褒め言葉や感謝を避けるためでした。そこでドン・アルバロが仲介しました。
1952年8月、カルメンはサンチアゴとともにローマに現れました。そして水道も電気もない田舎の農家に来て労働者とともに働いたのです。その御蔭で翌年から1966年までの夏、ローマ学院の生徒たちは暑いローマの町を出て松林に囲まれた海辺の家で研修会をすることができたのです。(サルト・ディ・フォンディはやがてリゾート地になり、1966年に研修の家は引き払われました)。