オプス・デイはスペインで生まれましたが、聖ホセマリアは最初から全世界で働く使命を受けたと確信していました。しかし、海外で公に活動をするためには、ローマ教皇庁の認可を得ることが必要です。この他に、オプス・デイへの中傷が収まる気配がなく外国にも広がる恐れがあることも認可を必要とした理由でした。
そこで創立者は右腕のドン・アルバロを送ります。1946年2月ローマに着いたアルバロ神父は数日前にあった新枢機卿の任命式に参加した多くの高位聖職者に会い、何人かからオプス・デイの推薦状をもらいました。そして認可のための交渉を始めました。スペインの大勢の司教と新たしくもらった推薦状があるので、交渉は簡単に進むと思っていたのですが、案に相違して袋小路に入ってしまいました。
原因は、なんと言ってもオプス・デイの新しさでした。社会の中で身分を変えることなく聖性を目指す信者の組織は教会の法律にはなかったのです。教皇庁のある人は「あなたがたは100年早く来た」とドン・アルバロに言ったそうです。
こうなったら創立者自身がローマに来て説明するしか手がないと考えたアルバロ神父はマドリードに電報をうちました。当時聖ホセマリアは糖尿病に苦しんでいました。医者はローマに行くなら命の保証はできないと反対しましたが、オプス・デイの中央委員会の意見と自分の考えに従い旅行を決意しました。
大戦後、戦勝国はスペインを孤立させようとしました。そのためフランスとの国境は閉鎖され、ローマに行くには船でジェノバに向かうしかありません。その船に乗るためバルセローナに来た聖ホセマリアは、出発の朝センターのお御堂で数人のメンバーに説教をしました。そして神様にこう言いました。「主よ、あなたは私がまったくの善意でこんなに沢山の人々を騙すようなことをお許しになるのですか。・・私たちは何もかも捨ててあなたに従いました。あなたに仕える以外のことを望んだことはありません。・・あなたに信頼した人々をお見捨てになることはできるはずがありません」。
そしてその町で愛されているメルセー(憐れみ)の聖母にすべてを託して乗船しました。