聖ホセマリアの生涯-52

1941年、イシドロ・ソルサノは身体に異常を感じます。

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1941年、イシドロ・ソルサノが身体に異常を感じました。イシドロは静かに休みなく働く人で、鉄道会社に勤務しながらオプス・デイ全体の財政の担当に当たっていました。2年ほど病体を引きずって働き続けましたが、疲労、発熱、呼吸困難がひどくなり、42年の年末にはとうとう入院しました。苦痛のため夜寝られなくなったのです。聖ホセマリアはメンバーが交替で付き添うよう計らい、自らもしばしばご聖体をもって行きました。

他方、1943年2月14日にオプス・デイの司祭の問題について解決を見つけた神父は、それを教会法の中でどういう形にするかの問題と格闘しました。再び専門家の意見を聞きながら答えを見出しましたが、それはオプス・デイの本来の姿とは異なるものでした。しかし、弱まる気配のない反対者の攻撃を収めるため、また今後の発展のためにも法律的な形を持つことが求められました。そのために教皇庁の許可を得る必要があったので、創立者はアルバロ・デル・ポルティーリョをローマに送ることにしました。

内戦中から聖ホセマリアはアルバロを自分の右腕として頼るようになっていました。アルバロもそれに応えて、官庁での仕事をしながら、オプス・デイの統治の仕事で創立者を手伝っていました。

1943年5月アルバロはローマに飛び立ちます。時は第二次世界大戦のただ中で、旅客機はイギリス航空部隊とイタリア艦隊が戦火を交えている空域を通過したほどです。バチカンに向かったアルバロは土木技術者の制服を身にまとっていました。バチカンのスイス衛兵はアルバロを見ると偉い軍人と思って、一列に整列して見送ったそうです。6月の間、教皇ピオ12世を始め多くの高位聖職者と面会しオプス・デイの説明をしました。他方、聖ホセマリアもマドリード大司教を通して公式の手続きを進めていました。

この努力の結果、10月11日付けで教皇庁は聖十字架司祭会の設立を許可しました。イシドロは地上でこの朗報を知ることはありませんでした。7月15日に天に召されていたからです。(注。1948年10月、イシドロの列聖調査が開始されました)。

尾崎明夫