すでに見たように、聖ホセマリアには姉のカルメンと弟のサンチアゴという兄弟がいました(写真)。3人の妹がいたのですが、皆小さくして天国に行ってしまいました。1923年に父親のホセ氏が亡くなってからは、一家を支えたのは神父でした。しかし、1928年のオプス・デイ創立以降、神父は家族を養うという義務の他にオプス・デイという重い使命を背負うことになりました。当然、家族のために捧げる時間とエネルギーを減らさざるをえません。家族の生活はますます困窮して行きました。神父は家族をオプス・デイの事業に巻き込む権利はないと考えていました。しかし、新しいメンバーを養成するための場所として学生寮を立ち上げたとき、その管理(食事の世話や掃除などの家事一般)の仕事を母と姉に頼むことにしました。これは神父にとって苦渋の決断でしたが、二人は寛大に神父の仕事を助けました。こうしてドローレス夫人とカルメンの人生は、ホセマリアの事業の中心部に巻き込まれてしまったのです。
スペイン内戦が終わって、聖ホセマリアは女性の間にオプス・デイの教えを広める仕事を再開しました。女性との仕事は3年間の戦争で壊滅していました。そこで、まず男子メンバーや親しい友人の親族に、オプス・デイの精神が理解できる女性がいるかどうか探しました。また知り合いの司教や司祭からそのような関心をもった女性を紹介されることもありました。このほかに教会の色んな団体から頼まれる黙想会には女性対象のものもありました。神父の著書『道』は広く読まれており、それを通じてこの本の著者に興味を持つ女性もありました。このようなルートを通じて聖ホセマリアと出会い、話しを聞き、オプス・デイに入ることを申し込んだ女性が出てきたのです。
この新しい女子メンバーの養成の仕事で聖ホセマリアが頼みとしたのが母親でした。ドローレス夫人は若い女子メンバーにオプス・デイの精神の大切な面である家庭の雰囲気を作るために必要な心構えや仕事を模範でもって教えていきました。しかし、1941年4月に神は夫人を突然召されます。これは神父にとっては計り知れない痛手でした。しかし、母親が担ったこの役割を、姉のカルメンが見事に引き継いでくれたのです。