聖ホセマリア司祭叙階100周年(3月28日)

オプス・デイ創立者の叙階記念日にあたり、連載記事「聖ホセマリアの生涯」より、師の司祭召命への道のりと新司祭としての門出の部分を抜粋します。その歩みは十字架を伴うものでした。

聖ホセマリア叙階100周年記念カード


スペインは暖かい国と思われるかもしれませんが、冬はかなり寒いです。1917年の年末ログローニョは厳しい寒波に襲われました。クリスマス休暇のある朝、ホセマリアが外に出てみると、真っ白な雪の上に裸足の足跡が続いているのを目にしました。それはある修道士が残したものでした。彼は深い感動を覚え、「神様と隣人のためにこんな苦行をする人がいるのに、自分は何もしなくていいのだろうか」と考えました。

後にこう言っています。「神が私に何を求められているかは知りませんでしたが、自分をお選びになったということははっきりわかりました。」つまり、少年は神から呼ばれたと感じたのです。カトリック教会はこれを召し出しと言います。では、何をすればよいのでしょうか。ホセマリアはもっと深く祈るように努め、福音書に出てくる盲人の言葉、「主よ、見えますように」を繰り返すようになりました。

1918年の春、将来の進路を決める時期になりました。ホセマリアは神のお望みに応えるために、とりあえず司祭になろうと決心し、それを父親に打ち明けました。

ホセ氏は「息子よ、よく考えなさい。家庭を持たないことは辛いことだよ」と言って二粒の涙を流したそうです。「父が泣くのを見たのは、後にも先にもこのときだけです」とホセマリアは言っています。ホセ氏には家族の計画を変更せねばならないこと、息子がその理想実現の過程でぶつかるだろう困難、などが頭に浮かんだのでしょう。「でも反対はしない」と言い切り、友人の司祭に紹介し、同時に法律の勉強もするよう助言を与えました。このとき、ホセマリアは両親を助ける義務について考えました。そして、瞬間的に将来両親を支えることのできる弟を下さいと神に頼んだのです。しかし、この祈りについてはすぐに忘れてしまいました。

ホセマリアが司祭になる決心をしたという噂は、友人や知人を驚かせました。実はホセマリア自身、雪の上の足跡を見るまで、司祭になろうという考えはまったく持っていなかったのです。

司祭になる決心をしたホセマリアは、16歳で高等学校を卒業すると、ログローニョにあった神学校に外部生として入学し、2年間、家からこの学校に通いながら神学やラテン語の勉強に励みました。この間、うれしい出来事がありました。それは弟の誕生です。弟はサンチアゴと呼ばれました。以前、司祭になると決意したとき密かに神に弟を送ってくれるよう祈ったことが思い出されました。

1920年秋、本格的に神学校で学ぶため、両親の家を離れてサラゴサという町に引っ越し。この町はローマ時代にさかのぼる由緒ある町で、アラゴン地方の首都で大学もありました。ホセマリアは父の忠告に従って、神学校で学びながら大学で法学部の授業も受けました。しかし、父にとって息子の進学はかなりの犠牲となっていたようです。ある年の夏休み、ホセマリアの実家で数日過ごした神学校の同級生は、「あの方を見ると心が痛みます。まだそれほど年をとっていないのに、もう老人のように見えました」と言っています。

ホセマリアが神学校に入ったのはもちろん司祭になるためでしたが、彼にとって司祭になることは神のお望みを果たすための手段でした。しかし、肝心の神のお望みが何であるのかがまだわかりません。そこで、「主よ、見えますように」という短い祈りを何度となく繰り返していました。まるで暗闇の中で一条の光を求めるかのように。

神学校での生活はつらい出来事を交えながらも順調に進んでいきました。そろそろ司祭叙階の準備が始まろうとした1924年秋「父、危篤」の電報が届きました。ホセマリアは大急ぎで帰省しましたが、ホセ氏は部屋の床の上に遺体となって横たわっていました。「父は消耗しきって死にました。口元には微笑を浮かべて」。この父の思い出はその後苦難の中でホセマリアを支え続けます。「父が苦しさを表に出さず、喜びのうちに苦しむのを見ました・・・私はどれほど多くを学んだことでしょう」。


聖ホセマリアは司祭になる直前に父を亡くしました。すでに苦しい生活を送っていた一家は、さらに貧しくなったのです。ホセマリアは家族を経済的に支えることになりました。そこで、母と姉カルメンと弟サンチアゴを自分が住むサラゴサに呼び寄せました。しかし不思議なことに、このことが親族を怒らせたのです。彼らは貧しい親戚を身近にもつことを恥じたのです。母方には三人の司祭を含む少なからぬ親戚がいましたが、その中の最も裕福な人たちはこの一家を助けようとはしませんでした。

このような孤独の中でホセマリアは1925年3月28日に司祭に叙階されました。普通、新司祭はゆかりの教会で大勢の親族や友人を招いて初ミサをたてます。初ミサは喜ばしい雰囲気のうちに祝われるものです。しかし、ホセマリアの初ミサは、聖週間(キリストの死去を記念する週)に当たっており、かつ亡き父のために捧げられものであったため、招待客も少なく、寂しい雰囲気の中で祝われました。ホセマリアが選んだ場所は、神学生時代によく祈りに行ったピラールの聖母像が見守る小聖堂でした。それは大聖堂の中にあり、ミサの間も周囲にはたえず大勢の人が行き来していました。

ドローレス夫人は喪服で参列しました。息子の晴れ姿を見ずに先立った夫と一緒に忍んだ苦労を思いだしてか、「大粒の涙をひっきりなしに流し、時には失神するかに見えた」と参列者の一人は語っています。

新司祭は、ミサの中で自分が聖別した聖体をまず母親に授けることを楽しみにしていました。しかし、聖体拝領が始まろうとしたとき、一人の見知らぬ女性が進み出てドローレス夫人の前に跪いたので、その人に聖体を与えねばなりませんでした。聖ホセマリアは、楽しいお祝いのときはいつも、神様が自分に何か小さな辛いことを与えられると言っていましたが、今回もそうなったのです。

その晩、ドローレス夫人はお祝いに来てくれた一人の従兄弟とカルメンの友人を家にさそい、ささやかな料理でもてなしました。新司祭は辞令を受け取りましたが、それはまたしても辛いものでした。

司祭になったその日、聖ホセマリアはサラゴサから25キロほど離れた農村に行くようにとの辞令を受け取りました。その村の主任司祭が病気だったので、代理をするためでした。普通なら新司祭は、年配の司祭が主任を務める教会で、その司祭の指導を受けながら仕事をします。聖ホセマリアにとって、養うべき家族を町に残して行くことは辛いことでした。

サラゴサから25キロほど離れた農村ペルディゲラ

3月31日、村に到着。宿泊場所は親切な村人の家。早速教会に行ってみると、作りは立派でしたが、中は埃にまみれていました。それで翌朝のミサのために教会内部の掃除に取りかかります。長い行事が続く聖週間と復活祭が終わり一息つくと、司牧の計画を立てました。まずは村人を知ること。わずかの間に村にいた200家族を全部訪問しました。そして、寝床の病人を訪れ、告解を聞き、望む人には聖体を持って行く。また、大人も子どもも教義の知識がないのを見て要理教育に励みました。こうして熱心に司牧に励みましたが、その熱心さをからかう村人もいました。

神父の下宿には子どもが一人いました。その子は羊の群れを連れて朝早く家を出て日が暮れるまで家に帰ってきません。神父はかわいそうに思い、夜に教会の教えの手ほどきをすることにしました。少し勉強が進んだ頃、どれくらい分かったのか知ろうとして「もし大金持ちになったら、何がしたい」と尋ねました。すると、「金持ちになるって、どういうこと」と聞き返します。そこで「それはたくさんのお金や着物や土地や山羊などを持つことだよ」と言うと、彼は目を輝かせて「それなら、ぶどう酒を入れたスープを何杯も食べたいな」と答えました。それを聞いて神父は考え込みました。「話しているのは神様だ。人間の野心なんて、こんなちっぽけなものであることを教えておられるのだ」と。

村の教会の世話役の息子は、神父のよく仕事を手伝ったりして、仲良くなったようです。聖ホセマリアの死後、その生涯の調査が行われたとき、次のように話したと言います。「この村に来られた神父様たちの中で最も印象に残っているのは、なぜかわかりませんが、エスクリバー神父です。神父様はとても愉快でユーモアにあふれ、上品で裏表なく、優しい人でした。ここにおられたのは短い間でしたが、私は神父様がとても好きになり、ここを去られたときは本当に寂しく思いました」。神父は5月18日にサラゴサに帰りました。

尾崎明夫