福者アルバロ、尊者イシドロ・ソルサノについて語る

ちょうど80年前、1943年7月15日、尊者イシドロ・ソルサノは40歳の若さで帰天しました。翌年4月に福者アルバロ・デル・ポルティーリョが書いた尊者についての証言を掲載します。

私がイシドロに初めて出会った1935年3月、私はまだオプス・デイに所属していませんでした。まさにそのため、彼がパドレ(聖ホセマリア)と会うために、毎月マラガから旅をしていることは私に感銘を与えました。彼は二晩連続で列車に乗り続けたのち、マドリードにいる数時間の間をフェラスの私たちの家で過ごしました。彼はパドレとオプス・デイに属している人々との話に加え、当時、主が召し出しを準備していた人たちとも個人的に話す時間を持っていました。

当時イシドロは32歳でしたが、はるかに若く見えました。多くの人は彼を学生の一人だと思っていました。それは信頼関係と友情を大いに容易にしました。私たちがそれぞれの家族のもとへ路面電車で帰るときのことを鮮明に覚えています。彼はプラットフォームでの20分間をうまく活用する術を知っていて、控えめながらも、何かのエピソードを語ったり、考えさせられるフレーズを言ったりしました。そして何よりも彼の行動の全体像を良く覚えています。イシドロがマラガでの生活を満喫できる身分の一流のエンジニアでありながら、パドレと話をするため、そして私たちの内的生活をサポートするためだけに居心地の悪い長い列車の旅をしていることは、オプス・デイが超自然的なものであること、そして召し出しの偉大さを知らなかった私たちに驚くべき大きな影響を与えました。

1935ー36年度の終わり、イシドロは、彼が多くの従業員と何百人もの労働者を指揮下に置いていたアンダルシア鉄道の職を辞め、フェラス学生寮の管理人としてマドリードにやって来ました。彼は綿密さを持って(つまり大きな神の愛を持って)全ての出費、料理のメニュー、さまざまな料理の価格などを管理しました。結果として、食事の値段や全ての出費が大幅に削減されました。 その頃はパドレを先頭にイシドロや他の人々が喜んで皿や食器を洗い床を掃除している時代でした。そのようにして無いお金を節約しました。当時すでにイシドロは静かで効果的な仕事をすることをよく知っており、主とパドレへの並々ならぬ信仰心に満ち、召し出しについて少しもためらうことなく、喜びに満ちていました。経済的なことに対する心配事を、超自然と使徒獲得への熱意と調和させ、若者たちに模範と言葉を通じて絶えず「説教」していました。

1936年7月、スペイン内戦が勃発します。私たちは内戦のはじめから互いに離れ離れでいる必要がありました。私は数カ月間、イシドロとの継続的な接触ができなくなりました。サン・アントン刑務所にいた私は12月にイシドロを彼の母の家に、パドレや皆の近況を知るために送りました。2ヶ月後、私は再びイシドロに会うことができました。その時、私はすでにメキシコ大使館の建物にいましたが、イシドロにそのことを伝えることができると、彼はすぐにやってきました。そして私たちは、パドレや他の人々の状況など、私たちの関心事について長い時間話しました。私は彼の多くの悲劇に対するとても超自然的なものの見方、神への大きな信頼、希望について話すときの自然で簡素な態度、私たちが忠実であればオプス・デイを通して、神が霊魂の救いのための大きな実りと平和を近い内に実現してくれるという確信を覚えています。それは私にとても良い影響を与えました。彼が超自然を簡素に自然に生きる様子は(それは並外れた信仰のしるしでした)私にいつも感銘を与えました。


イシドロ・ソルサノの経歴

尊者の取り次ぎを願う祈り