第一章:この世界を愛した司祭 (11Q07)

1.私は無価値なみじめな者、しかし価値ある愛で一杯の者 (11Q07)

  11Q07 要するに、自己の弱さを把握することで、絶え間ない戦いに奮い立ち、慣れや惰性に陥ったりすることはなかったのですね。

11A07 1950年、二十歳そこそこの私に師が頼んだことを今でもはっきりと覚えています。神を心から愛している人の自然さで「今日は自分の敬虔の足りなさを悲しんでいます。償いをするため私を手伝って欲しい」と言ったのです。このように緊急事のように頼まれたことは、私の心に深く染み透りました。創立者は信心深くなるために、とても努力していたことを私は知っていましたから。1953年私たちを次のように励ましました。「がっかりせずに必要ならいつでも放蕩息子のようにすることです。始めること。心から痛悔して赦しを願い、やり直す。これは神なる主がたいへんお喜びになることです。神は私たちがどんなものか、よくご存じですから。それゆえ、いつも主に立ち戻りなさい。愛を込めて戻りなさい。神は私たちを待っておられるのです。」

主を益々深く愛するため、絶えず自分への要求を強めていました。1966年、また様々な機会に、次のように話しています。「私たちの生活の超自然的な意味を糾明しましょう。自分自身を探しもとめているのではないか、習慣的になって、主との出会いを疎かにしているのではないか。もし習慣的になっているなら、愛が廃れだしているからです。この主への愛こそが、私たちの生活を意義あるものにし、私たちを本当に役立つ者にするのです。」1970年2月14日、私に言いました。「今日の日を、よく振る舞おうと決意して始めました。神の内に深く入り込み、神の栄光を奪うことのないよう努めよう。多くの惨めさを持ちながら、こう決意します。私の惨めさの何と多いことか。」間断なく神を捜し求めようと決心していたのです。