隣人の気持ちをわかる

愛徳を生きるためには、隣人が心を配るに値する人格であることを認め、その人の立場に立ってものを見る必要がある。「人格形成」シリーズの新しい記事を提供します。

周囲で起こることを本当に理解するためには、多くの場合客観的なデータだけを知るだけでは足りないということを経験したことがあるだろう。例えば,友達のために何かの曲を演奏したとしよう。自分が大好きなその曲を聞きながら友達は楽しんだかどうかを知りたいと思うだろうが、友達が「君の演奏は正確だったよ」とだけコメントして、まったく喜びを表さなかったら、落胆するだけでなく、自分には才能がないのではと悲しくなるのではないだろうか。

もし隣人の心を、つまり彼らが期待し望んでいることをよりよく知ろうと努めるなら、人間関係でどれほどの問題がなくなることだろう。「愛徳は、『与えること』よりも、むしろ『理解すること』にある。それゆえ、隣人を判断する義務のあるときには、その人の言い分を捜してあげなさい。必ず見つかるはずだ」(『道』463番)。愛徳を生きるためには、隣人が心を配るに値する人格であることを認め、その人の立場に立ってものを見る必要がある。他人の身になって考え、その人が置かれた状況を理解し、その気持ちを推し量ることを容易にする資質を、英語ではempathyと呼ぶ。この態度は、愛徳と結びつくと、人とのコミュニケーションを育て、聖ペトロの勧めのように「皆心を一つに、同情し合う」(1ペトロ3, 8)ことに役立つ。

キリストから学ぶ

イエスは模範によって、隣人をどのように見るべきかを示し、隣人と感情を共有しその喜びと苦しみに付き添うように教えられる。

弟子たちは最初から主イエスの豊かな感受性を経験した。隣人の立場に立って考える能力、人間の心の底にあることを察知する敏感さ、他人の痛みを自分の痛みとする細やかさ、など。ナインの村に着いたとき、一言も説明を聞くことなしに、一人息子を亡くした寡婦の悲劇を理解した。ヤイロの願いを耳にすると、すぐに周囲で騒いでいる人々を静め彼の願いを聞き入れた。ご自分に付いて来る人々に何が必要かにいつも気を配り、彼らに食べ物がないとそれを何とかしようとされた。ラザロの墓の前で泣くマルタとマリアとともに涙を流し、自分たちを受け入れないサマリアの村を天から火を降らして焼き尽くそうと提案した弟子たちの心の偏狭さに怒られた。

愛徳と柔和な態度を持つなら、人情豊かな論理で考えるようになり、冷たく親しみのない議論よりもずっと簡単に隣人の心を開かせることができる

イエスは模範によって、隣人をどのように見るべきかを示し、隣人と感情を共有しその喜びと苦しみに付き添うように教えられる。イエスを眺め、周囲の人々の内面に関心を払うことを学び、恩恵に助けられてそれを妨げる欠点、すなわち注意散漫、気まぐれ、冷たい無関心などを徐々に克服していこう。この努力を中途半端に終わらせてよいものではない。「もし信仰生活にふさわしい徳を獲得していないなら、聖人ぶった徳を外面的に実行しても、無意味である。下着に高価な宝石をじかに飾るようなものだから」(『道』409番)。主のみ心に近づくなら、私たちの心を暖かくし、イエスの心のようにすることができるだろう。

愛徳、親切、気持ちの同化

「キリストの愛とは、周囲の人々と気持よく接したり、博愛主義を標榜するにとどまるものではありません。神が霊魂に注入される愛徳は、内部より知性と意志を変え、善を行う喜びと友情に超自然的な基礎を与えるものなのです」(『知識の香』71番)。弟子たちが主とまじわり学んでいくうちに、その気質をなおしていった過程を見ていくことは楽しくさえある。彼らは非常に異なった性格の持ち主で、時には他人に対してあまり理解を示さないこともあった。ヨハネは、兄弟のヤコブとともに雷の子とあだ名されるくらい激しい性格であったが、後年柔和な人物となり、隣人のことに関心をもち、キリスト自身がされたように隣人のために自分を捧げる必要性を強調するようになった。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3, 16)

また聖ペトロも、以前はイエスの敵たちに対して厳しい態度を取っていたが、神殿に集まった民を前にして、辛辣さとは全く無縁の言葉をかけて、改心するように励ました。「兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。(…)だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」(使徒言行3, 17, 19-20)

また聖パウロもよい模範である。キリスト信者を容赦なく迫害した後、改心し、自分の明晰な知性と強い性格を福音のために役立てた。アテネでは、ここかしこに立つ偶像を前にして心は怒りに震えたが、市民の思いを理解しようと努める。アレオパゴスでアテネ人に演説をする機会が与えられると、彼らの偶像崇拝と退廃した道徳を責めるのではなく、その代わりに彼らも神を心底から探していることを指摘する。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(使徒言行17, 22-23)。人々を理解し自分からやろうとする気を起こさせるこの態度には、知性によって感情を調整し完成する人の際立った特徴が見られる。それだけでなく、隣人の置かれた状況を理解しようとする人の非凡な才能も現れる。つまり、聴き手と波長を合わせ、彼が何に興味を抱いているかを把握し、完全な真理に導くために、どんなに小さなことに見えても、共感できる一つの面を探し出すのである。

真理を愛するための道

隣人を助けようとするとき、愛徳と柔和な態度を持つなら、人情豊かな論理で考えるようになり、冷たく親しみのない議論よりもずっと簡単に隣人の心を開かせることができる。神の愛によって、私たちは優しい振る舞いを保持し、キリスト教的生活がどんなに魅力的であるかを示すことができるようになる。「真の徳はいとわしくも悲しくもない。真の徳とはよろこばしく愛すべきものである」(『道』657番)。真理を愛するなら、どんなにゆがんだ心の中にも神の痕跡を認めること可能にするからだ。こうして、各人の長所を発見することができるようになる。

本当に相手の気持ちになるには、誠実さが要求される。それは利己的な利害を隠した表面的な親切とは別物である

愛徳があれば、友人や仕事の同僚、家族や親戚と付き合う中で、道を外れている人に対しても理解を示すことができる。彼らが信仰から遠ざかっているのは、ひょっとしたらよい信仰教育を受けなかったから、あるいは福音の真の教えを生きている人と出会わなかったからかも知れない。このように考えれば、隣人が正しい道を歩んでいないときでも、その気持ちをわかろうとする心構えを保つことができる。「私は暴力を振るう人を理解できません。暴力は相手を納得させるためにも打ち負かすためにもふさわしい手段ではないと思います。誤りというものは、祈りと神の恩寵と研究によって正すものです。決して力をもってはできません。常に愛徳をもって、です」(『対話』)44番)。いつも忍耐をもって真理を語る必要がある。「愛に根ざして真理を語る」(エフェソ4, 15)と言われている通りである。おそらく今は誤っているが、やがて神の恩寵に心を開くことができるようになるかも知れない人の立場に立つことができなければならない。この態度は、フランシスコ教皇の言葉を借りるなら、「足を止める、他者に目を注ぎ耳を傾けるために心配事を脇に置く、道端に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する、―そのようにしたほうがよい場合がしばしばあります。時にわたしたちは、帰ってきた息子がすぐ入れるようにと門を開けたままにする、放蕩息子の父のようであらねばなりません」(フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』46番)。

使徒職と感情の交わり

相手の気持ちになるということを、単なる戦術と考える人もいるかも知れない。つまり、さながら商品を消費者に売り込む技術のように考え、商品を買わせる目的で親切を示すのである。このやり方は商売の世界では通用するのかも知れないが、人と人との関係にはそれとは異なる論理がある。本当に相手の気持ちになるには、誠実さが要求される。それは利己的な利害を隠した表面的な親切とは別物である。

もし周囲の人々にキリストを伝えたいのなら、この誠実さは不可欠である。神が私たちの近くに置いて下さった人々の気持ちを自分のものにするなら、彼らとともに喜び彼らとともに苦しむという細やかな愛徳を持つことができる。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(2コリント11, 29)。コリントの信者に対するこのパウロの愛のこもった言葉のなかにどれほどの誠実な愛情が見られることだろう。このように感情を共有することができるなら、真理はより簡単に伝わっていくことだろう。というのは、コミュニケーションを強める、愛情の流れが確立されるからである。そうなると、魂は、耳が聞くことをより受け入れやすくなる。それが霊的な生活を改良する建設的なコメントであればなおさらである。

「聞く技術はまず、他者とコミュニケーションの中で寄り添うことのできる心の力で、これがなければ真に霊的な出会いにはなりません。聞くことは、冷めた傍観者としての状態をわたしたちから取り除いてくれる、適切なことばやふさわしい態度を見つけられるよう助けてくれます」(フランシスコ2013年11月24日使徒的勧告「福音の喜び」171番)。相手の言うことを関心をもって聞くならば、彼らが置かれている状況を把握することができる。そうすれば、その時に主が求めていることを見極めることができるように彼に手を貸すことができる。他方、相手が自分の状況や意見や思いに敬意が払われていると感じるなら、魂の目を開いて、真理が冷たいものではなく暖かいものであることを見て理解することになるだろう。

聞くことは、冷めた傍観者としての状態をわたしたちから取り除いてくれる、適切なことばやふさわしい態度を見つけられるよう助けてくれます

それとは反対に、隣人の事に対する無関心は使徒的な人にとっては致命的な病である。周囲にいる人々から距離を置くことはだめである。「あなたのことを良く思っていないあの人たちも、あなたが彼らを〈ほんとうに〉愛していることに気付いたら、考えを変えるだろう。あなた次第なのだ」(『拓』734番)。隣人への理解を示す言葉、小さな親切、楽しい会話などは、相手に対して誠実な関心を持っていることを表す。好かれる人になることができると、主との付き合いのすばらしさを分かち合う友になることが容易になる。

前進することを励ます

教皇フランシスコは、次のように言う。「よい同伴者は、運命論者でも臆病者でもありません。つねに他者を励まし、いやされたいと願うように、自分の床を担ぐように、十字架を抱き締めるように、すべてを捨てるように、福音を告げるために再び出かけるように、いつも招いています」(フランシスコ2013年11月24日使徒的勧告「福音の喜び」172番)。隣人の弱さを理解する人は、中途半端な妥協はしないように、聖性という目標を探し続けるように奮い立たせることができる。

このようにすることで、隣人を深く理解した上で優しく要求するという主の模範に従うことになる。復活の日曜日の午後、エマウスの弟子たちに付き添われたとき、彼らにこう尋ねられた。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(ルカ24, 17)と。そうして、彼らがどうして心を消沈させていたかや、主が復活されたという婦人たちの伝言をなかなか信じられないことなどを語るままにさせて、彼らの心の重荷を下ろさせた。彼らが話すだけ話してから、主は口を開かれ、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24, 26)と説明された。

イエスはどのような話しをされたのだろうか、どのようにしてエマウスの二人の弟子の不安に答えられたのだろうか。ともかく彼らは最後に「一緒にお泊まりください」(ルカ24, 29)と言った。最初には預言者たちの言うことを理解しないと言ってしかられたにも関わらず、である。ひょっとしたら、声の調子や優しい視線などが、彼らをして叱責を素直に受け入れさせたのかも知れない。しかし、彼らは自己を変えるように招かれた。私たちと接する人々が、私たちが彼ら一人一人に敬意を持っていること、その気持ちを理解しようと努めていることに気づき、そうして信仰生活をもっと豊かにしたいという積極的な態度をとることができるように主の恩恵を乞い求めよう。