家庭は成長の場(1)

ひとりとして偶然に生まれてくる人はいない。一人ひとりは大きな価値を持つ存在だ。人格の調和のある成長のために、子供が最初の瞬間から家族の中で愛されていると自覚することは決定的である。

あの子はお母さんそっくりだ。笑い方や話すときの手の動かし方、そして歩き方なども・・。このようなコメントはよく耳にする。それというのも、実際私たちはほとんど気づかないままに、両親や兄弟の人となりから多くのことを真似ているからだ。その中には目の色とか気質とか体つきのように遺伝的な面もあるだろう。他方、日々の人との付き合いや教育を通して、身につけたものもある。

このシリーズで見てきた成熟した人の資質は、家族の中で生まれ育つ。それを考えると、家族の役割がいかに重要かがわかる。家族は、そこで私たちが生まれ、育ち、死んでいく良い場である。「わたしたちはどんな時期にも、どんな状態にあっても、どんな社会的状況に置かれても、自分が子供であり続けることを深い喜びのうちに認識するのです」(教皇フランシスコ、2015年3月18日の一般謁見)。

神が望まれた家族という制度には、父であろうが兄弟であろうが、また子供であろうがみんなが責任を分担する。

家族の全員、すなわち祖父母、両親、子供たち、孫たちは、家族にキリスト教的な雰囲気を醸し出すために、各瞬間に自分自身の最もよいものを与えるよう呼ばれている。

家庭とはみなで支えるもの

私たちは自分の家族を選んだのではない。神がそれを選ばれた。神は、私たちをキリスト信者にするため、両親や兄弟の徳だけでなく、欠点も考慮に入れておられた。「このことについては誰もが経験したことですが、家族の中では、今の私たちが、手にしているもので、奇跡が起こります。・・多くの場合、それは理想的なものでもなく、こうあって欲しいというものでも、こうあるべきだというものでもありませんが」(教皇フランシスコ、2015年7月6日、説教)。

家族の全員、すなわち祖父母、両親、子供たち、孫たちは、家族にキリスト教的な雰囲気を醸し出すために、各瞬間に自分自身の最もよいものを与えるよう呼ばれている。家族というものはみんなで支え合うものだ。両親も子供とともに成長し、年が経つにつれて、家族内での役割は変化していくこともある。みんなを支えていた人が、支えてもらう側になったり、先頭に立っていた人が最後になったりする。家族は衣食住などの基本的必要性を満たす場よりもずっと重要なもので、そういうことの他に、本当の人間的な価値の美しさを見つける場である。克己の精神や隣人への敬意といった健全な人間関係を保つために必要な価値を見つける場である(参考、聖ヨハネ・パウロ2世、使徒的勧告『家庭』、66)。あるいは、責任感や忠実さや奉仕の精神を身につける場とも言える。これらの価値は、ゆっくりと陶冶されていくものだが、あるグループに属しているという単純だが堅固な感覚を必要とする。それは単に世界に投げ出されているのではなく、最初から愛情によってできた世界の一部、すなわち家庭の中で受け入れられていると感じることである。

神ご自身が人間の家庭の中に生まれることをお選びになりました。イエスの道はその家庭の中にありました(教皇フランシスコ)

神ご自身が「この世に来られるにあたり、ご自分がお造りになった人間の家庭の中に来ることをお選びになりました。神は、その家庭をローマ帝国のはずれの人里離れた村にお作りになりました。帝国の中心地であったローマではありません。(・・・)こう言う人もいるかもしれません。『わたしたちを救うために来られた神は、そのような辺境の貧しい土地で30年間を無駄に過ごしたのではないでしょうか』と。イエスは30年を費やしました。イエスにそれが必要だったのです。イエスの道はその家庭の中にありました」(教皇フランシスコ、2014年12月17日の一般謁見)。

愛されていることを知ること

この地上では、今日も大勢の人が生まれている。しかしながら、各人は唯一無二の存在で、永遠から望まれて生まれてきた存在だ。「私たち一人ひとりは、神の計らいに基づいて生まれたのです。私たち一人ひとりは、神から望まれ、愛され、必要とされています」(教皇ベネディクト16世、教皇就任ミサ説教、2005年4月24日)。

写真: Ismael Martínez.

ひとりとして偶然に生まれてくる人はいない。一人ひとりは大きな価値を持つ存在だ。それは両親を知らない場合でも、あるいは別の家族に養子にもらわれた場合でもまったく同じである。「一人ひとりの霊魂は、かけがえのない宝、一人ひとりの人間は唯一の存在です。キリストは一人ひとりのために御血を流してくださったのですから」(聖ホセマリア、『知識の香』80)。両親が誰であろうと、どんな欠点を持っていようと、両親から受けた恩は大きい。

子供が生まれてまだ間もないのに、母親はもうあかちゃんが泣くとき何を求めているのか、眠たいのかお腹か減っているのかを見分ける。次にあかちゃんが微笑み始める。それは個性の芽生えで、同時に子供らしい特徴である人まねの最初の現れである。幼児は見る物を何でも自分のものにしてしまう。両親は子供にとって安心が生まれるところである。幼児が知らない人が近づくと、父親や母親の足にしがみつくというよく見られる光景は、それを明快に示す。この守られているという安心感から、子供は自由に動き自己を出て世界を探求し、隣人に心を開くことを学んでいく。

両親は子供にとって安心が生まれるところである。幼児が知らない人が近づくと、父親や母親の足にしがみつくというよく見られる光景は、それを明快に示す。

生まれつきの性質と教育だけによって人の人格が全面的に決定されるというわけではないが、人格の調和のある成長のために、子供が最初の瞬間から家族の中で愛されていると自覚することは決定的である。まず愛を受けて初めて、後で隣人を愛することができるようになるのである。愛情と世話 -誰もが持っている自己中心の傾きを直していくための要求と剛毅も含まれるが- を受けることによって、子供は自分と隣人が価値あるものであることを知るようになる。両親の優しく強い愛は、子供が自分を正しく評価し、それゆえに隣人を愛し、利己主義を捨てることを可能にする。

キリスト信者の家庭で生まれる愛の絆は、死によってさえ消滅しない。もしまだ小さいときに親を失うことがあっても、その場合信仰によって、すでにこの世でイエス、マリア、ヨセフが、多くの場合寛大な他の人たちを通して、親代わりになってくれることを知る。聖家族にならって、非常に人間的に、同時に非常に超自然的になるように努めよう。そして、聖テレジアが書いたことが実現する日が来ることを期待しよう「」(『自叙伝』38)

真の自己実現

「おかあさんは食事を作ることが好きだったの。洗濯は。お掃除は。私たちを学校に連れて行くことは」などと娘から尋ねられ、もう年老いた母親の脳裏に昔の思い出がよみがえってきた。家族の問題に悩んだ日々、家事に疲れてぐったりした日々、家計が火の車で家計簿とにらめっこしたこと、小さな子供たちが高熱を出した冬の日々などなど。時にはいらいらが募って皿を何枚か壁にぶつけたこともあった。そのような思い出にふけって、こう簡単に答えた。 「好きだったかと言えば、そうね、それほど好きではなかったわ。でも確かなことはあんたたちを愛していたということかな。あんたたちが大きくなるのを見ると嬉しかったわ」と。世の中のどれほど多くの母親や父親が同じことを言うだろうか。教皇は、これらの親は立派な賞を受けるに値すると言われる。なぜなら、彼らは「偉大な数学者でさえ解けないような難解な問題を解く方法を知っています。彼らは24時間でその2倍分の仕事をこなします。それはノーベル賞に値するくらいです。24時間で48時間分の仕事をするのです。私は一体どうやってそれをするのかわかりませんが、ともかくやっているのです。家庭にはそれほど多くの仕事があるのです」と(一般謁見、2015年8月26日)。

家族は完全ではないが、調和を保ち、家族の一人ひとりの個性をよく見極める。両親は権威を持つが、それを子供に押しつけようとはしない。子供を自分たちの望み通りの人間にしようとするのではなく、親の指導と愛情の下に彼らの可能性を伸ばすように導く。家族のよい雰囲気を作る責任は父親にも母親にもある。それぞれが互いに譲り合い、また自分を子供に与えることによって、家庭は人間的な成長の場となる。

また、家族の共同生活は個人の才能を見つけることを助けてくれる。それは、本人はなかなか気づかないが、周囲の人は容易に発見する、優しさ、元気のよさ、ユーモアなどである。家族を愛することによって、困難の最中でも、各人は自分の性格の最もよいもの、肯定的な面を引き出しことができるようになる。疲れや緊張のために、悪い面が現れたなら、赦しを願って再びやり直す時がきたのだ。「自らの過ちを認めることによって、また失われたもの -敬意、誠意、愛- を取り戻したいと願うことによって、人は赦されるに値する者となります。このようにして、病が癒やされます。謝ることができなければ、赦すこともできません。謝ることができない家庭は、息苦しく、よどんだ雰囲気になってしまいます。『ごめんなさい』というこの大切なことばが失われると、家庭内に多くの苦しみや傷が生じ、涙が流れます」(教皇フランシスコ、2015年5月13日の一般謁見)。

女性は母親としての自分のもつ資質が代替不可能なものであることを発見するだろう。この母親の役割を果たすことで神に忠実になろうと努めるなら、家庭が居心地のよい場となり、家族皆が愛情や他者への敬意や、犠牲と自己放棄の精神を身につけ、個人的に成長することに貢献するだろう。「女性に託されている使命とは、家庭や社会や教会に、女性だけが持ち、提供することのできる何か女性に独特の貢献をすることです。細やかな優しさ、疲れを知らぬ親切、具体的なものへの愛、素早い機知と直感、謙遜で篤い信仰心、粘り強さなどは、女性のもつ貴重な特質です。」(聖ホセマリア、『女性社会と教会における女性の役割』)

父親も自分が子供たちの導き手であることを発見するだろう。父親も子供が成長するのを手助けし、彼らと遊び、一人ひとりが個性を伸ばせるように見守る。キリスト教徒の父親は家族が自分の第一の事業であること、その中であらゆる次元において自分を成長させるビジネスであることを知っている。そのため、あまりにも心身共に消耗させる生活リズムには注意しなければならない。それによって、最も価値のある目標を見失い、精神的に崩れ、家族の関係を破壊する可能性があるからだ。

それゆえ、両親が子供のそばにいること、子供たちに心の智恵を伝えることの誇りをたえず培うことは、非常に大切である(教皇フランシスコ、2015年1月28日と2月4日の一般謁見、参照)。両親が子供のそばにいないことは多くの問題を引き起こす。「明るく楽しい」家庭において、父親と母親はそれぞれ自分の役割を果たす。この父と母の役割は、誰かに代わってもらうことができず、互いに補い合いながら、心を満たすのである。このことは、神が何人の子供を送って下さるかとは関係ない。子供が一人も来ない場合、家族の他の人たちや友人たちに対して霊的な父親や母親の役割を果たすことができる。

待つことと約束すること

「私たちは普段はあまり意識していないかもしれませんが、この世界に兄弟愛を伝えるのは何あろう家族なのです」(教皇フランシスコ、2015年2月18日の一般謁見)。民族の基本的な構造や国々の平和などは、一生の間忠実を保ち男女が互いに自己を捧げ合う家庭の上に築かれる。

民族の基本的な構造や国々の平和などは、一生の間忠実を保ち男女が互いに自己を捧げ合う家庭の上に築かれる

今日では、多くの人が冒険を夢見ている。その望みに応じようとする企画は無数にある。これ以上ないほどの種類の、刺激的で、瞬間的、感動的なもの、例えば深海への潜水、大空の飛翔、高いところからの飛び込みなどが人々を魅了する。結婚して家庭を持つという約束は、それらと比べてずっと目立たないが、いつも驚嘆を引き起こす。なぜなら、私たちは永遠に愛するために作られており、とどのつまりそれ以外のものは苦い味しか残さないからだ。永遠に続かない愛は、小文字の愛、つまり本当の愛ではない。

家族生活では様々な逆境や危機に直面するが、家庭を作る約束への忠実はいつもいかなる逆境や危機よりも強い。「愛は死と同じく強い」(Ct、9、6)。大きな困難があっても、しっかりした動機があれば、それをたえることができる。しっかした動機とは、単なる思想や制度ではない。それは何よりも人である。愛に応えることは各人の心の最も深いところに及ぶので、それを拒否するとき、私たち自身が傷を負う。

言うまでもないことだが、偉大な計画はつねに大きな危険を伴う。今日では多くの若者が、間違うことを恐れて、いつまでも続く約束をすることに二の足を踏む。しかし実際、心に呼びかけを感じながら愛の扉の前で留まることはより大きな誤りである。それゆえに、心を固めること、心を成熟させることが必要である。これが婚約期のキリスト教的な意味である。「婚約期は、果実のように熟する人生の一時期です。それは、結婚する時まで、愛のうちに成熟する道なのです」(教皇フランシスコ、2015年5月27日の一般謁見)。結婚に対して「はい」と言えるための最もよい訓練、またその堅固さを得るための最もよい試験は、教会が婚約期にある二人に疲れることなく求める待つ能力である。ときにそのわけが正しく理解されないこともあるが・・。「あらゆるものを性急に――直ぐに――求める人は、最初の試練(第一段階)で、すぐにすべてをあきらめます。(…)婚約期には、たとえどんな誘惑されても、決して売ったり、買ったり、裏切ったり、捨てたりしてはならないものを一緒に守ろうとする心が重要なのです。」(教皇フランシスコ、2015年5月27日の一般謁見)

この冒険は時間が過ぎても継続する。家は狭くなり、新しい愛と家庭が生まれる。

その愛を夫婦そろって守ろうとする両親から子供は学ぶ。そういう家庭から最良の市民が生まれる。共通善のために自分を犠牲にすることを厭わない人、自分の仕事であろうが他人のための仕事であろうが、いつも心を込めて働く人、高い目標を目指す職業人、首尾一貫した政治家、依怙贔屓をしない弁護士、献身的な医師、料理を芸術に変える料理人などなど。このような家庭の中で成長する子供は、忠実な母親、忠実な父親になり、あるいは、共通の家族である人類に奉仕するために自己のすべてを神に捧げる。この独身の召し出しを受ける者たちも、別の仕方でよき母、よき父の役割を立派に果たす。

この冒険は時間が過ぎても継続する。家は狭くなり、新しい愛と家庭が生まれる。活気が、生きる喜びが再び生まれる。「人々の希望と世代間の調和は強く結びついています。子供が喜ぶことにより、両親の心は躍り、未来が再び開けます」(教皇フランシスコ、2015年2月11日の一般謁見)。