年間第30主日(A年)福音書の黙想

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。

年間第30主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書22章34ー40節が読まれます。朗読箇所に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。


自由は神の恵み

イエス・キリストの愛と同じく、無限の自由を完全に理解することは決してできないでしょう。しかし、主のこの上なく貴重な宝、すなわち寛大な燔祭を見ると、尋ねないわけにはいきません。なぜあなたは、私がみ跡に従うことも、あなたに逆らうこともできるようにしてくださったのですか。このように問いかければ、自由の使い方の正否を判断できるようになります。人が善に向かうなら、その自由の使い方は正しいが、愛のなかの愛を忘れて神から離れるなら、自由の行使において誤ったしるしです。ひとりの人間としての自由、私はこの自由を、今も、いつまでも、力の限り弁護するつもりですが、とにかくこの自由のおかげで、自分の弱さを知りつつも、大船に乗ったような気持ちで主に申し上げることができるのです。「主よ、何をお望みかおっしゃってください。そして、私が進んでそれを果たせますように」。

キリストは答えてくださいます。「真理はあなたたちを自由な者とするだろう」[1]。ところで、生涯を貫く、この自由の道の始まりであり、終わりである真理とは、一体どのような真理のことなのでしょう。神と人間の関係を知れば当然もちうる、喜びと確信に満ちた答えを要約してみましょう。ここでいう真理とは、私たちが神のみ手から生まれ、至聖なる三位一体の深い愛の対象となり、かくも偉大な御父の子であるということ。この真理をよく自覚し、日々味わう決心ができるよう、主にお願いしましょう。そうすれば、自由な人間にふさわしい生き方ができます。しっかりと心に刻み込んでおいてください。神の子であることを知らない人なら、自分に最も近しい真理を知らないわけですから、何ものにもまして主を愛する人らしく、自らを支配し、自らに打ち勝つことはできないでしょう。

天国を勝ち取るためには、ためらわず、たゆみなく、全く自発的に決意して、自由に道を切り拓いてゆかねばなりません。しかし、自由意志だけでは充分でなく、道標なり道案内なりが必要です。「魂が歩みを進めるためには、導き手がいる。それゆえ魂は、悪魔ではなく、キリストを王とすることのできるよう贖われたのである。悪魔の支配は耐え難いが、キリストのくびきは快く、その荷は軽い(マタイ11・30)」[2]

自由、自由、と声を大にして叫ぶ人々の欺瞞を退けなさい。そのような叫びは悲しむべき奴隷状態に陥っている証拠であることが多いのです。過ちを選べても自由であるとは言えません。私たちを自由にすることがおできになるのはキリストだけです[3]。主のみ、道であり、真理、生命です[4]から。

再び、神に問いかけてみましょう。主よ、何のためにこのような能力を与えてくださったのですか。なぜ、選んだり、拒否したりする力をお与えになったのですか。私がこの能力を正しく使うことをお望みです。しかし、私は何をすればよいのでしょうか[5]。すると、ためらいを許さぬ適確な答えが返ってきます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」[6]

お分かりでしょうか。自由が本当の意味をもつのは、救いをもたらす真理を得るために使うとき、あらゆる種類の奴隷状態から解き放つ神の無限の愛を、疲れをいとわず求めるときなのです。キリスト者が有するこの測り知れない宝、つまり「神の子らの光栄の自由」[7]を大声で人々に告げ知らせたいという気持ちが日毎に強くなります。聖パウロの言葉には、「善悪を識別した後に善」を追求するという、「善き意志」[8]についての教えが要約されています。

良心の負うべき大切な責任について黙想して欲しいと思います。誰一人として私たちの代わりに選択することはできません。「善に向かって自己を導くのは、自分自身であって他人ではないということ、ここにこそ、人間のもつ最高の尊厳がある」[9]。カトリックの信仰を両親から受け継いできた人は大勢います。神の恵みによって、生まれて間もなく洗礼を受けたとき、超自然の生命が芽生えました。しかし、全生涯を通じて、いや毎日、何にもまして神を愛するという決意を新たにしなければなりません。「神の御独り子である<みことば>の支配を無条件に受け入れる者こそ、キリスト信者、つまり真の信者である」[10]。そして、この恭順には、「神である主を拝み、ただ主に仕えよ」[11]と言われたキリストと同じ態度で悪魔の誘惑に立ち向かう心構えが伴っていなければなりません。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』26ー27)


[1] ヨハネ8・32

[2] オリゲネス『ローマ書註解』5, 6 (PG 14, 1034-1035)

[3] ガラテヤ4・31参照

[4] ヨハネ14・6参照

[5]使徒言行録9・6参照

[6] マタイ22・37

[7] ローマ8・21

[8] 証聖者マクシモス、Capita de Charitate 2, 32 (PG 90, 995)

[9] 聖トマス・アクィナス『聖パウロの書簡講義ーローマ書』Cap. 2, lect. 3, 217 (ed. Marietti, Torinio, 1953)

[10] オリゲネス『ケルソス駁論』8, 36 (PG 11, 1571)

[11] マタイ4・10