聖ホセマリアの生涯-44

スペイン内戦後、オプス・デイの活動はマドリードだけでなく、スペインの多くの地方都市にまで広がりました。しかし、この発展と同時に、教会の内外に激しい批判や中傷が出てきました。

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スペイン内戦後、オプス・デイの活動はマドリードだけでなく、スペインの多くの地方都市にまで広がりました。しかし、この発展と同時に、教会の内外に激しい批判や中傷が出てきました。以前から反対する人はいました。なにしろ、普通の信者が社会の中で聖人になるよう呼ばれているという教えは、教会の中では見られなかったものでしたから、これは間違っているのではと疑う人があっても不思議ありません。また19世紀からヨーロッパに広がった世俗主義(宗教は個人的なもので、政治や文化や経済とはまったく切り離すべきだという考え)の人々にとっては、信者は社会をキリスト教の精神で満たさないといけないというオプス・デイの教えは気にくわないものでした。

聖ホセマリアは、オプス・デイについて教会の指導的地位にある司教や司祭たちにはことあるごとに説明し、教会当局の理解を得ていました。しかし、そのめざましい発展は、教会のある人々の嫉妬心と疑惑心をかき立てました。自分たちの指導を受けに来ている学生たちが、奪われるのではないかとの危惧したようです。

中傷の中には、ヘンネール寮では香水を振りかけた聖体を拝領しているとか(寮の工事の後に残った臭いを消すために聖櫃の側に少し香水を置いた)、跪くときに後ろに手を回す儀式をするとか(跪き台がなかったので、跪くとき自然に手が後ろに回す人がいた)というような子供じみたものから、創立者は気が触れているとか、オプス・デイはフリーメーソン(反カトリックの秘密結社)に似た秘密結社であるというような危険なものまでありました。

聖ホセマリアは昔から不正な批判を受けたときは、「黙って、祈り、仕事をする」という方針で、今度もそのように努めましたが、中傷は収まるどころか激しくなるばかりです。そこで友人の司祭や修道士の助言を聞いて、反対をする中心人物に直接話しに行くことにしました。そして互いに相手を尊重する約束をしましたが、この約束は守られませんでした。

この嘆かわしい状況を見て、創立者のよき理解者であった、マドリードのレオポルド・エイホ司教はオプス・デイに教会の法律的認可を与えようと思いました。しかし、これもオプス・デイの新しさのため簡単なことではありませんでした。

尾崎明夫