子どもの自由を育てる

子育てとは、ようするに、子ども自身が「望んで」善いことをするように導くことです。そのためには、子どもたちが納得しながら善いことをするよう、教えて行くことが大切です

写真: Nation

私たちは、信頼を示されると行動する気になります。逆に、信頼されていないと感じると、立ち止まってしまうものです。ですから、子供たちが自由を発揮できるよう、信頼を示すことは、非常に有益なことなのです。

神は、自由な存在者を創造することを望まれましたが、このことに全ての意味があります。良い父親であればするように、私たちは神から道徳法という指針を与えられました。それは、私たちが自由を正しく、つまり、私たち自身の善を促進しながら、自由を用いることができるためです。そのようにして、「神は人間の自由という危険を冒されたのです」(『知識の香』113番)。

ある意味、ご自身の計画を私たちの承認に従わせることを、全能者が受け入れたと言えるかもしれません。「神は、人間の自由、不完全さ、そのみじめささえも尊重し譲られるのです」(同上)。なぜなら、神は、操り人形の奴隷の境遇ではなく自由に与えられる私たちの愛を好まれるからです。神は、私たちの応答を支配するよりも「一見したところ」失敗に見えるご自身の計画を望まれるからです。

『道』で、聖ホセマリアは、イエスがアビラの聖テレジアに話したと言われる言葉を引用しています。「テレジアよ、わたしは望んだのだ…。しかし人々は望まなかった」(『道』761番)。キリストの十字架上のいけにえは、まさに、神がどれほど人間の自由を尊重する覚悟ができているかを示す最も雄弁な印です。また、主ご自身がそこまで自由を尊重されたのですから、キリスト者の親として同じようにしないならば、自分は何者かと考えるべきでしょう。

子供を愛するとは、子供の自由を愛することです。しかしそれは、危険を冒すことでもあります。子供たちの自由に「自分自身をさらす」ことですから。しかし、ただこうしてのみ、子供たちの成長はふさわしく子供たち自身のものとなります。そこには、内側で、自分で吸収していくプロセスがあります。それは、強制や操りによって左右された自動的な応答ではありません。

植物が育つのは、庭師が外的に「伸ばす」からではなく、植物が栄養を自分のものにするからです。それと同じように人間も、最初に受けた模範を自由に吸収することで成長します。したがって、「アドバイスや提案を示した後、誠実に子供たちの善を愛し求める両親であれば、上手に、目立たないところへ退き、自由という素晴らしい贈り物をさえぎるものが何も無いようにすべきでしょう。人は自由のおかげで、神を愛し、神に仕えることができるのですから。神ご自身が自由に愛され仕えられることを望まれており、いつも私たちの個人的な決定を尊重されるということを、両親は覚えておくべきでしょう」(『エスクリバー・デ・バラゲル師との対話』104番)。

愛され導かれた自由.

写真: sean dreilinger

子供たちの自由を愛するということは、子供たちが自由をどのように使うかということに無関心でいるということとは全く違うことは確かです。父性や母性には、子供を教育する責任があり、自由を導き、自由に対する「要求」見極めさせる必要があります。神が人間に対して、suaviter et fortiter (優しく強く)接するように、両親も、子供たちが自分の能力を用い、価値ある人として成長できるよう、どうやって導くべきか知るべきでしょう。子供たちが自分の計画について許可を願いに来るときは、良い機会かもしれません。状況について、しかるべき考察を経た後は、どうすべきか決めるのは自分次第であると応えることが適切かもしれません。しかし、子供たちは、自分がしているお願いは本当にふさわしいことなのかどうか、自らに問いかけるよう励まされるべきです。本当に必要なことか単なる気まぐれにすぎないのか区別できるよう助けられるべきでしょう。また、多くの人にとって経済的な余裕のないことにお金をかけるのは公平ではない、ということも理解できるよう導かれる必要があります。

自由を本当に尊重するとは、自分自身を克服する助けとなる倫理的要求を育てるということです。どんな人もそうやって成長します。例えば両親は、子供たちの年齢によって、限界を配慮しながら、子供たちに要求すべきでしょう。賢慮と節度をもって、適切な理由を説明して、また当然ながら暴力には訴えず、罰が必要なことも時にはあるかもしれません。忍耐を示しながら支え励ますことで、最良の結果が得られます。「子供が決心したことが間違いであると、両親の目には明らかで、将来不幸になるとみなされるような極端な場合であっても、強制ではなく理解によって両親は対応します。自分の子供の支え方を知っていることで、子供が困難を克服するよう助けることができます。また必要であれば、不幸な状況からあらゆる助けを引き出すこともできるでしょう。」(同上)。

子育てという仕事は、結局のところ、子供たちが善いことを「したいと思う」ように育てるということです。そのために知的道徳的源を提供しますが、それによって一人ひとりが自分自身で確信しながら、善を行うことができるようになります。

正し方を知る

人や人の自由を尊重するということは、彼らが考えることは何でも正しいとみなすという意味ではありません。両親は、善いことと悪いことについて子供たちと対話する必要があります。そして時には、必要なエネルギーを費やして、正す力が必要となるでしょう。それは、子供を尊重するだけでなく愛するからであり、子供が決めるどんな行動も「大目に見る」ということは絶対にしません。

愛とは、人間関係に見られる、大目に見ると言うことでも黙認される強制でもありません。誰かを欠点と〈共に〉愛することができるといっても、それらの欠点〈ゆえ〉に愛するということはできません。愛は、一人ひとりにとっての本当の善を望むのであり、最も良いものを与えたいと思い、幸せになることを望むものです。したがって、本当に愛する人は、人々が欠点と戦えるよう努力し、彼らを正して助けることを望むのです。

一人ひとりにある肯定的な面は、それが少なくとも潜在的なものであっても、常に欠点よりたくさんあるもので、そういった良い素質によって人は愛される者となります。しかしながら、私たちは、そういった肯定的な素質を愛しているのではなく、それらを所有するその人自身を愛するのであり、その人はおそらく肯定的でない性質も備えているのです。「正しい」ふるまいができるのは、通常は、何度も、「間違っていることを正してもらった」おかげです。肯定的に、正されるならば、より効果的でしょう。特に、これからもっと良くなる可能性を強調することです。

子供を教育することは、自由に対する働きかけであることは、容易に理解できるでしょう。これこそ、訓練や指示と、教育するということを区別するポイントです。したがって、「自由について教育する」という表現には余分な言葉が入っています。ただ「教育する」と言うだけでそこには「自由について」という意味がすでに入っているのです。

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信頼についての教育的価値

それでもやはり、「自由について教育する」という表現によって、人は信頼の雰囲気の中で形成される必要性があるということが明白になります。すでに強調したように、私たちの行いに関する他者からの期待は、道徳的に行動するための動機として働きます。他の人々が自分に示してくれる信頼によって、私たちは行動に駆り立てられますが、一方で、信頼されていないという感覚は麻痺させるものです。若者や思春期の子供たちの場合は特にこのことが顕著になります。彼らは、まだ性格の形成途上にあり、他の人々の意見や批判に重きを置くものです。

信頼するとは、信仰を持つことです。誰かを信頼することであり、その人には「真理を受け入れる能力がある」と考えることです。状況に応じて、真理を表し守り、そして真理を実践する能力です。誰かに信頼が示されることによって、通常は、二重の効果がもたらされます。大事なものを受け取ったと分かるので感謝の気持ちが育まれ、責任感も育ちます。誰かが私に大切なことを頼むときには、その人は、私にはそれが可能であるという信頼を示しているのであり、私について高く評価をしてくれているということになります。誰かが私のことを信頼してくれているなら、私はその人の期待に応えようと動かされ、自分の行動に責任を持つようになります。人を信頼することは、人に何かを任せるためのとても効果的な方法です。

教育者が達成できることの大部分は、いかにそのような態度を育てることができるかということにかかっています。特に両親は、子供たちの信頼を勝ち得る必要がありますが、まずは子供たちを信頼することから始まります。小さなころから、子供たちの自由の用い方を育てるのは良いことです。例えば、子供たちにまず尋ね、それから、良いことと悪いことについて説明するということをすべきかもしれません。しかし、信頼が無ければ、意味がありません。相互的な心情のおかげで、誰かに心の中のことを開くことができるようになります。それがなければ、人としての成長に役立つ目標や課題を設定することは難しくなります。

信頼は与えられ、勝ち取られ、成し遂げられるものであり、押し付けられたり、要求されるものではありません。誠実さの模範を示すことで、人は信頼するに値する者となります。〈模範によって導かれます。〉今、人々に求めている誠実さを先に与えることです。それによって、誰かに何かを要求するために必要とされる実際的な権威が得られます。このように、自由の中で教育することによって、自由を教育することができるのです。

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子供たちの自由を教育する

教育とは、「自由を可能にすること」として理解されることになるでしょう。自由が可能になることによって、どんなことに本当の価値があるのか理解し、何が質的に向上させるもので、何が成長に導くものなのか知ることができるようになるでしょう。また、自由が実際に必要とするものに対して、大胆に立ち向かうこともできるようにもなります。このようなことは、自由の使い方を提示し、意味のある課題を提案することによって獲得されます。

人生の各段階には、肯定的な側面があります。若い人たちにとって、最も気高いことの一つは、愛すべき要求に対して、積極的に信頼し応える能力があることです。若い人たちは、比較的短い期間で、顕著な変化を遂げるかもしれません。例えば、困っている人を手伝うとか、弟や妹の面倒を見て良心を助けるなど、取り掛かることが可能で大切なことだとわかるような課題を任されると、すぐに成長するものです。

逆に、両親が、子供たちの気まぐれに負けてしまうようになると、表面的には楽かもしれませんが、長い目で見れば、もっと重い損害をこうむることになります。なんといっても、子供たちが成熟する助けにはなりません。人生に対する用意に欠けてしまうことになるからです。こうなると、早い時期から、努力や自制無しに、あらゆることは自動的に解決されるものだと考えるようになります。そして、決して成熟することはないでしょう。人生に避けられない強風が吹くと、こういった状況を解決するには、もう遅すぎるということにもなりかねません。

確かに、快楽主義や消費主義の雰囲気の中に、たくさんの家族が浸されています(それは、いわゆる先進国と言われるところだけでなく、発展途上国でもみられることです)。そのような環境によって、徳の価値を認めることが妨げられたり、より良い善を獲得するために、目の前にある満足を後回しにすることの大切さを理解することができなくなっています。

しかし、そのような不都合な環境にあっても、精一杯努力して、雰囲気に逆らうことが重要であることは、常識があれば明らかです。今日、特に重要なことは、蔓延する雰囲気に対して戦う道徳的活力を持つ人が、そうでない人よりも「もっと自由」であることを、説得力をもって示すことです。

私たちは皆、そのような「道徳的活力」を手に入れるよう呼ばれています。それは、自由を道徳的に善く使うことによって勝ち取ることができます。教育者にとって、特に親にとっては挑戦ですが、自由を本当に人間らしく使うというのは、気が向くことをするということではなく、本当に善いことを「望むから」するということであると、説得力をもって示して行くことです。これこそが、聖ホセマリアが言うように、「最も超自然的な理由」です(『神の朋友』27番)。

感情や「気持ち」を野放しにするほど盲目なことはありません。一見魅力的だと思えることだけを望む人は、道徳的善を理論的にも実践的にも根気よく追求する人よりも、幸せではありません。

つまるところ、自由の本当の意味を見出せるのは、「救いをもたらす真理を得るために使うとき、あらゆる種類の奴隷状態から解き放つ神の無限の愛を疲れをいとわず求めるとき」なのです。

J.M. Barrio