黙想の祈り:年間第20主日(B年)

黙想のテーマ:「時間を贖う」「聖体は永遠のいのちの証」「キリストは私たち皆が捜し求める以上のものを与える」

―時間を贖う。

―聖体は永遠のいのちの証。

―キリストは私たち皆が捜し求める以上のものを与える。


第二朗読において聖パウロが「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(エフェソ5・15)と言っています。そして、愚か者と賢い者の違いを判断し、賢い者は、「時をよく用いる」(エフェソ5・16)と加えています。事実、少し立ち止まってよく考えると「定められた時は迫っている」(1コリント7・29)ことに気づくでしょう。ですから、無為に過ごした時、愚かな振る舞いですばらしい宝物を失ったと感じることでしょう。生きるとは、この世の旅路のため与えられた時間に投資することです。この投資に成功する人が賢い者です。「時というものは、険しい岸壁をつたう水のように指の間をすり抜けて消える宝、訪れては去り行く宝です。昨日は過ぎ去り、今日も去りつつあります。明日という日もまもなくきのうになってしまう。人の一生とは短いものです。しかし神の愛のためであれば、わずかな時間しかなくても沢山のことを成就できます」[1]

この世の知恵は神の知恵ではありません。時を贖うとは、多くの事をすることではなく、また、だいたい満足のいくような経験を積むことでもありません。人となった神の知恵であるイエスが、時を贖う論理を説明します。「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのためにいのちを失うものは、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払い得ようか」(マタイ16・25-26)。主に自分を委ねる時、主の贈りものの時間を主の御手にお返しする時、私たちの時間を主が贖ってくださるのです。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5・17)と聖パウロが言っています。み旨を示されるキリストご自身が、裁判官としてお出でになる時、一人ひとりに与えられた時間をどのように使ったかをお尋ねになります。その裁きは、周知のように、他の人々への奉仕を基にして行われます。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。助けを必要としている人々のために時間を使うことは、イエスのために使うことですから、時間を贖ったことになります。こうして、永遠のいのちを得ることになり、私たちの行為は永遠に豊かなものになるのです。「さあ、急いで愛を実行しなさい」[2]と聖ホセマリアが励ましています。これはもっとも理に適った勧めです。これは「金貨を手にすると、多分、失くさないよう気を遣う。魂の小銭は与えないと無くなる」[3] ことを知っている人特有の考えです。


聖書が語る知恵とは、単に知性に関することだけではありません。例えば〈知恵〉という言葉は、感覚と、具体的には味覚と関連づけられています。知者は人生を味わい、自らが生きている時間を味わいます。実際、今日のミサの第一朗読は、「考えの浅い人」のため御馳走を準備する女性になぞらえて、知恵を提示します。彼女は言います。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」(箴言9・5-6)。この表現は、神の知恵・みことばによって整えられた、聖体祭儀を思い起こさせます。そして福音におけるいのちのパンについての話の場面では、移ろいやすい愚かな事と永遠のために生きる知恵が比較されます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。(…) わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6・27-51)。

主が〈食べ物〉について話されるとき、それは私たちの生活に意味をもたらすものについて言及しています。飢えや渇きは、私たちが目指す、いのちの充満である幸せへの望みの一端を表しています。それに関して、イエスは、主が私たちにお与えになる食べ物を除いては、何も私たちを心底、満足させることはできず、聖体を頂く者だけが「飢えることがない」(ヨハネ6・35)と確言されます。井戸に水を汲みに来たサマリア婦人に言われたことと似ています。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわきでる」(ヨハネ4・13-14)。周りのものが全て古くなっていく中で、永遠を約束する聖体を私たちにお与えになります。それは教会が教えているように「永遠のいのちのしるし」[4]であり、すでに今、ある程度それに触れ、味わうことができます。聖体におけるイエスは神の賜であり、この地上ですでに、永遠で日々を満たし、私たちの時間を贖うため、与えられたのです。「だからこそ、ミサ聖祭はキリスト信者の生活の中心であり拠り所なのです。(…) キリストは道であり仲介者です。キリストには全てが見出されます。キリストと一緒でなければ、私たちの生活は空しくなることでしょう」[5]


いのちのパンの話が終わると多くの人たちが言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)。ヨハネは続けます。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6・66)。時々、聖体だけを糧にすることは難しいと感じることがあるかもしれません。そのような時には、ある程度の満足感を与える他の〈糧〉を探すことがあるかもしれません。しかし、それらはよいものであったとしても、私たちに十分な満足を与えることはないでしょう。また場合によっては、「聖体をあいまいで、私たちとはかけ離れたものにしてしまうこと」があるかもしれません。「多分それは、香の煙に包まれ、輝かしく神々しいでしょうが、さまざまな問題のある日常の生活状況とはかけ離れたもの」[6]になってしまっています。

キリストは、まず、私たちが心から満足することに関心をお持ちです。人々の種々の心配事に無関心のままではおられないお姿を、福音書で確認できます。単に霊的な問題だけではなく、通りがかりに出遭うもっともこの世的な事にも、助けの手を差し伸べられます。婚宴の席を喜びで満たすため、水をブドウ酒に変え、聴衆にひもじい思いをさせないためパンと魚を増やし、弟子たちを落ち着かせるために嵐を静められました。イエスは、聖体において、それ以上の業を行われます。それは、単に多かれ少なかれ難しい状態に耐えるための力を与えるだけではありません。神ご自身、私たちの生活に入り込むという恵みなのです。

「私たちに食物が必要なことは確かです。しかし愛によって食物が与えられたと知って満足することも必要です。キリストの御体と御血において、主の現存を実感し、私たち一人ひとりに差し出される主のいのちを体験するのです。単に、前進するため助けてくださるだけではなく、ご自身をお与えになります。そして、私たちの道連れとなって、私たちの歩みに入り込み、孤独な私たちを訪れ、私たちの生活に新たな意味を与え、生き方を高め強めます。私たちの人生における暗闇や疑問に、主が意味を与えられる時、私たちは満足します。しかし、それは主が考えられる意味であって、そしてまさにこのことが私たちを満足させるのです。それは皆が求めている〈より価値あるもの〉を与えます。つまり、それは主の現存です。主の現存の温かさによって私たちは生活を変えることができるからです。主不在の人生は、実に味気ないものになるでしょう」[7]。最初にキリストをお受けになった方、聖マリアは、私たちが主に助けをお願いするため、聖体に近づくよう助けてくださるでしょう。


[1] 聖ホセマリア『神の朋友』52番。

[2] 聖ホセマリア『神の朋友』40番。

[3] Antonio Machado, Soledades, LVII,II.

[4] 第二バチカン公会議「典礼憲章」37番。

[5] 聖ホセマリア『知識の香』102番。

[6] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2022年6月19日。

[7] 同。