無原罪の聖マリアへの9日間の祈り―5日目

黙想のテーマ:「神への飢えと渇き」「憐みのまなざし」「イエスの食べ物」

1日〜4日目の黙想


神への飢えと渇き

憐みのまなざし

イエスの食べ物


「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ5・6)。ここでイエスが言われる幸せとは、物的な必要性に関することではなく、より深遠なことです。また、単に善の相応しい分配に関することだけでもありません。それは、あの詩篇作者が必要としたことでした。彼はこう言っています。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを探し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、渇ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63・2)。普通の食物では満足できない渇きです。聖アウグスティヌスが「主よ、あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」[1]、とコメントしています。

無原罪の聖マリアも、エルサレムでの過ぎ越し祭からの帰り道で、同じことを経験されました。帰途の途中でイエスがいないことに気づきます。聖母とヨセフは「一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を探し回ったが、見つからなかったので、エルサレムに引き返し」(ルカ2・44-45) ました。御子の不在に、お二人がどれほど心配されたか想像できます。私たちも、もっとも深遠な願望を満足させる唯一の対象を失ったときに、不安になるのですから。「イエスはどこにおられるのでしょうか。マリアよ、御子はどこにおられるのでしょう—。マリアは泣きぬれておられます。あなたも私も、人々の群れから群れへ、キャラバンからキャラバンへと駆けずりまわりますが、その甲斐もなく、御子を見かけた人は誰もいません。ヨセフは懸命に泣くまいとしていましたが、こらえきれず、ついに涙を――。そしてあなたも、私も」[2]

男性も女性も皆が完全さへの望みを持っていますが、それは霊魂に神が現存しておられるしるしです。私たちは誰なのか、どこに行きたいのかを示す渇望です。ですから、それは、単に一時的に満足させる何かではなく、私たちの全人生を傾けるようにとの招きです。「誠実な望みは、私たちの存在の深みに触れさせてくれます。ですから、困難とか災害とかに遭ってもそれが消えることはありません。私たちが渇いたときのようなものです。飲み物が手に入らないからと言って、渇きが収まるわけではありません。何とかして渇きを癒そうと、取りつかれたように努力するはずです。困難にあっても失敗しても望みを断ちません。かえって、望みはもっと強くなるはずです」[3]。マリアはこれまでにないほど御子の不在に苦悩を感じました。と言うのも、生活に意味を与えていたことが失われたからです。


「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(ルカ2・46-47)。マリアの心配は解消されました。しかし、御子を見つけて喜び、また驚きました。〈あの子はイスラエルの賢者たちに教えているが、これはどういうことだろう〉と。

イエスは、そこであの人たちが持っていた神への渇望を満たしておられました。確かに主はこのために送られたのです。この老人たちのことを考えると、後年、パンを増やされる前に言われたことが思い起こされます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」(マタイ15・32)。主は、私たちの苦しみをご存知です。そして、あの時のように、弟子たちが無関心をかこつことなく、手を差し伸べることをお望みです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6・37)。聖ホセマリアが言っています。「私たちは家族の善を求め、一人ひとりが幸せで喜んでいることを望んでいます。私たちが心を痛めるのは、食料と正義に飢えて苦しんでいる境遇にある人たち、また、孤独の苦しみに喘いでいる人、人生の末期に、誰からも顧みられず何の助けも受けられない人の境遇を思う時です」[4]

イエスはあの憐れみ深いまなざしをその御母から学ばれたと想像することがある意味できます。私たちは、他者に必要な事柄に気を付けておられるマリアに度々気づきます。従姉のエリザベトに手助けの必要なことを見てとる素早さ、カナでのブドウ酒の不足への心遣い、教会創立当初のころの使徒たちへの同伴…。そして今日でも、神への飢えと渇きを満たすように私たちを助け続けておられます。


マリアとヨセフは、神殿で出会った御子の状況に驚きます。その母が近づいて言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。しかしイエスの答えには、当惑させられます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・48-49)。

イエスは、いろいろな機会にご自分の食べ物は何かを話します。例えば、サマリア人の女性に出会われた時のように。実際、主の渇きは水ではなく、この婦人に神の国を知らせる事でした。ですから、使徒たちが食べ物をしきりに勧めたとき、かれらが知らない食べ物があると言われたのです。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4・34)。御父のみ旨とは、神殿でお年寄りたちに教えられたように、全ての人に救いを知らせることです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)。これが「たとえ気づかれていないとしても、生きるために必要なこととして人間に与えられる最高の正義」[5] です。

聖書記者は、イエスのこの言葉がマリアとヨセフには分からなかったと記しています。同時に、その母は、これらのことを全て汚れなきみ心に留めておられたと言っています(ルカ2・51参照)。マリアはご自分の生活で、御子が後ほど、弟子たちの基本的な在り方として示すことを前もって示しました。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12・50)。マリアにとっても、これが神への飢えと渇きを癒す食べ物だったでしょう。


[1] 聖アウグスティヌス「告白」I, 1. (中央公論社)

[2] 聖ホセマリア『聖なるロザリオ』喜びの神秘、第Vの黙想。

[3] フランシスコ、一般謁見演説、2022年10月12日。

[4] 聖ホセマリア『教会を愛する』47番。

[5] フランシスコ、一般謁見演説、2020年3月11日。