無原罪の聖マリアへの9日間の祈り―4日目

黙想のテーマ:「全ての人のゆるし」「悲しみの恵み」「神の慰め」

1日〜3日目の黙想


全ての人のゆるし

悲しみの恵み

神の慰め


聖家族の生活でのイエスも、他の家庭と同じように、特に幼年時代に、慰めてもらう必要があったことは確かです。ですから、主が「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5・4)、と仰せになったとき、かつての御母の姿を思い出しておられたことでしょう。聖母は様々なとき主に同伴されました。今、その全ての子どもたちにも、慰めをもたらしておられます。この4日目には、マリアが、何らかの形で全ての人の罪の赦しを願う場面、すなわち、御子の奉献とご自身の清めのため神殿に登られた所を考察することができます。

マリアとヨセフは幼子イエスを抱いてエルサレムに到着しました。誕生から40日が経ったので、長子と母親の奉献の務めを果たすために神殿に向かわれたのです。実は、マリアにはこの務めの義務はなかったのです。無原罪だったのですから、清めの必要な罪は何もありません。けれども、私たちに同伴し、私たちが犯した罪を悲しみ、その苦しみで御子の奉献に一致することを学ぶため、そうされたのです。聖家族は、単に既定の務めを果たすために神殿に行くのではありません。全ての人の罪の赦しをお願いするため、この世に必要ないつくしみと慰めを嘆願するために行かれるのです。聖マリアは、神に逆らわないことだけで、満足なさいません。全ての男性と女性―彼女の全ての息子たちと娘たち―が、神的な愛の幸せを見つけ出し、誤りに陥ったり、罪の苦しみを味わったりすることのないようにとお望みなのです。

聖ホセマリアは「自分の罪の赦しだけをイエスにお願いしないように。あなたの心だけで…、主をお愛ししないように。イエスに対する過去と現在と未来の…、全ての侮辱について、償いなさい。イエスを誰にもまして愛したすべての人々の、すべての心の力を合わせて、イエスをお愛ししなさい」[1]と、言っていました。マリアは、私と他者の傷ついた心を見るように、そして罪からの痛みを忘れないように助けてくださいます。マリアは、涙が悲しみに変わることがないよう、必要なら何度でもやり直し、再出発するために必要な慰めを与えてくださいます。


神殿でシメオンと呼ばれている老人に会いました。彼は、幼子を腕に抱き、「イスラエルの慰め」(ルカ2・25)になる方に出会う幸運に与ったのです。事実「キリストの全生涯における神の国の伝道は、慰めの務めでした。貧しい人たちへの明るいメッセージ、抑圧されている人たちの解放と病人の癒し、全ての人たちへの恩恵と救いの宣言であったのです」[2]。しかし、この慰めを受けるには、前もって私たちの弱さを認める必要があります。時々、とても簡単に弱さを隠し、それがないかのような生き方をしてしまうことがあります。弱さを見せることを恐れるよりも、たぶん嘆かないことを優先させたいのです。この心構えは、問題を直視せず、主と他者が与え得る助けを退けるような態度にしてしまいます。

聖マリアは、私たちに、神の慰めを頂けるよう自分の罪を認め悲しむことを、教えてくださいます。漠然とした嘆きではなく、害を与えたことやあるいは善行を怠ったことを悲しむことです。「これが愛さなかったことによる嘆きです。他者の命の重要さに由来するからです。ここで泣くのは私たちに対する神の限りない愛に応えなかったからです。また、善行を怠ったことを考えると悲しくなります。これが罪の意味です。この人たちは『愛している人を傷つけた』と言って、涙を流します。このような涙を流すとき、神は祝されるのです」[3]。無原罪のマリアに、同じように嘆くことができるようお願いしましょう。ご受難の時の聖ペトロと多くの聖人たちが自己の弱さを認め、新たな愛でイエスを愛したように、私たちもできるよう助けて頂きましょう。


シメオンは、イエスの両親を祝福した後でマリアに向かって言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2・34-35)。教会の母であられる聖マリアは、私たちを、他者の苦しみに同伴し、それを自分のものとして心を通わせるように、仕向けてくださいます。そうすると私たちは神の慰めに変わります。と言うのも、私たちの周りに慰めがあふれ出るように、神ご自身が私たちの心を慰めで満たしてくださるからです。

主は、あわれみを示すため人を頼りにされます。エルサレムが破壊されたとき、神は次のメッセージを預言者に託されました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪の全てに倍する報いを、主の御手から受けた、と」(イザヤ40・1-2)。そして、母親にたとえられます。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」(イザヤ66・13)。

私たちが他者にできる最上の慰めは、預言者がしたように、神はいつでも私たちをゆるしてくださることを思い出させることです。神は「わたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」(詩編103・10)と、詩編作者が述べています。こうして、赦してもらえる希望があるので、苦痛の最中でも、悲しみは喜びに変わります。これは、シメオンの予言が成就されたカルワリオで、無原罪のマリアに起こったことです。十字架上の御子をご覧になったとき、主と共に世界中の全ての反逆に苦しまれました。しかし、同時に、聖母の現存は、ヨハネと他の婦人たち―また、私たち―に慰めを与えます。私たちの視点を主の復活に向けさせてくれるからです。それで、泣く人は幸せ、と言えるのです。なぜならマリアは、御子が罪と死にうち勝ったことを思い出させ、彼らを慰められるからです。


[1] 聖ホセマリア『道』402番。

[2] 聖ヨハネ・パウロ二世、1989年8月13日。

[3] フランシスコ、一般謁見演説、2020年2月12日。