無原罪の聖マリアへの9日間の祈り―3日目

黙想のテーマ:「東方の賢人たち、穏やかさを見出す」「ヘロデの苛立ち」「静かな地域」

1日目、2日目の黙想はこちら


東方の賢人たち、穏やかさを見出す

ヘロデの苛立ち

静かな地域


「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5・5)。博士たちは、キリストが真福八端について話す何年も前に、ベツレヘムでこの幸せが実現されているのを見たのです。到着して、拝むためにやって来た相手の周りの雰囲気に、びっくりしたに違いありません。おそらく、久しく待たれていた救い主に出会うことを熱望していた彼らは、当時の大きな宮殿での謁見を思い描いていたかもしれません。しかし、唯一彼らが見たのは、両親に見守られてまぐさ桶に寝ている赤ちゃんだったのです。小さな贈りものを携えてやってきたのは、数人の牧童だけでした。これが救い主に同伴していた〈従者〉たちだったのです。

博士たちは、キリストに至るまでの旅のための時間以外、安楽さ、財産、個人的な企画など多くの事柄を放棄しました。今、王である御子を見出すには、非常に深い何かを放棄すべきことに気がつきます。王族としての考え方や、権力の行使の仕方です。権力者を捜したのですが、無防備な幼子に出会ったのです。馬小屋で、あの王様は力を振るうのではなく、従順を示していることを理解しました。支配するのではなく、私たちが主に近づことができるように、私たちと同じ弱い人性をご自分のものにされたのです。

「世を継ぐのは暴力を振るう者ではなく、最終的には柔和な者たちです。彼らには大きな希望があります。私たちは、優しさが暴力よりも強いという神の約束を確信していなければなりません」[1]。あの馬小屋の情景は、博士たちの生活を取り巻いていた事柄を変えたことでしょう。ベトレヘムの情景を見て、彼らの王権の行使が他の形をとるようになったかどうかは分かりません。多分彼らは、聖マリアの姿にも深く感動したでしょう。そして、「もし、誰か重要な存在に値するとしたら、それは彼女に違いない」と結論付けたことでしょう。そして、御子の母上の親しみやすさをも見てとったでしょう。彼女は、その従順によって、信仰のうちに神の約束を受け入れ、神にすべてを委ねました。無原罪の聖母への9日間の3日目の今日は、同じ穏やかで謙遜な態度を、神に頼んでくださるようにお願いしましょう。


ヘロデは、博士たちがユダヤの王を探していることを知って、「不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2・3)。この不思議な人物たちが探している人は、彼にとって、また子孫にとっての敵対者だと、恐れを抱いたのです。王国にとって非常に危険なことだと考え、その子供を殺す決意をしました。そこで、博士たちには、自分も会いに行きたいからと偽って、帰りにその場所を教えてくれるよう頼みました。しかし、博士たちが他の道を通って帰途に就いたことを知らされて「大いに怒った。そして、人を送り、ベツレヘムとその周辺の子どもたちを、一人残らず殺させた」(マタイ2・16)。

ヘロデは、権力を失うことを恐れたばかりか、怒りに任せたのです。王国を失うまいと暴力に訴えました。これは、彼の一時的な支配を示すものとして考えられることであっても、実際には、より重要なこと、つまり、平和と臣民たちの信頼を失ってしまうことでした。「一途的な怒りが多くの事を台無しにしてしまうことがあります。自制心を失い、現に重要なことの価値が分からなくなってしまいます。そして、兄弟との関わりがぎくしゃくしてしまい、時には手の施しようがなくなることもあります。怒りゆえに、多くの兄弟間に対話がなくなると、疎遠になってしまうものです。柔和とは逆のことです。柔和は集め、怒りはバラバラにしてしまいます」[2]

柔和さは、公平な立場で困難を見つめ、人や状況が、私たちの期待に添ったものであることを望まないよう助けます。柔和な人は、他者を支配しようなどとは全く考えず、神に向かうよう人を導きます。こんなふうに、他者の何かが、不愉快にさせる時があるなら、この徳は率先して関わりをもつよう助けます。違いを超えて築かれるのが一致である事を、知っているのです。しかし、このことは、柔和さがやる気を削ぐ、つまり、周りの出来事に無関心をかこつ生き方を勧めているわけではありません。事実、時にその特徴を表すのが、聖ホセマリアが言うように、反抗心です。「肯定的な解決のできないこと全てに反対しようとは思いません。無秩序な生活はしたくありません。その全てに反対します。神の子どもでありたいのです。神と付き合い、永遠の命のある事を知っている人として振る舞い、さらに、理解し、弁解し、赦しつつ共に生きる人生を送りたいのです。これが私の反抗心です」[3]


ヨセフは、イエスを捜して殺そうとしていることを天使から知らされるや、「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去った」(マタイ2・14)。この状況は、後年、主が、地を受け継ぐであろうと宣言された幸せとは対極をなすことのように見えます。ここでは、ヘロデの怒りの矛先が全国に向けられている間、穏やかな人が居住地を離れざるを得ない状況になったのです。一見、もっとも強い者、暴力によって治めようとする者が勝利者のようです。

真福八端で取り上げられているのは、物的な事柄よりも、もっと価値高いものです。「そこで柔和な人が〈受け継ぐ〉物は、領土などよりもずっと崇高なものです。問題を抱え込まないための楽な道徳観を持った、臆病者でも、〈怠け者〉でもありません。全く違います。遺産を受け取ったら、それを散らさないようにする人です。柔和な人とは、親切で愛想のよい人と言うだけではなく、キリストの弟子であり、まったく違う後の世を信じることを教わった人のことです。平和を守り、神との交わりと神の賜を守ります」[4]。詩編にあります。「主は私に与えられた分、私の杯。主はわたしの運命をささえる方。測り縄は麗しい血を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」(詩編16・5-6)。これが、柔和な人が最終的に所有することになっている〈領土〉:神ご自身です。

聖マリアは、危険な時を穏やかに過ごす事ができました。主を信頼しておられたのです。当然、疲れや不確実なことも経験されたでしょうが、それを、平和を失うことなく、落ち着いて受け入れました。神のご計画の中でのことだとご存じだったのです。イエスは、確かに、普段の状況における御母の穏やかなご様子を度々見ることができたはずです。ですから、後年、「わたしは柔和で謙遜な者だから」と仰せになったことは、いくらか、マリアから学ばれたことだと推測できます。このことが「主の御母であり私たちの母である御方に、至聖なる三位一体の視線」[5] を引きつけたのです。


[1] ベネディクト十六世、司祭団との集い、2013年2月23日。

[2] フランシスコ、一般謁見演説、2020年2月19日。

[3] 聖ホセマリア、ペルーでの若者たちとの集い、1974年3月13日。

[4] フランシスコ、一般謁見演説、2020年2月19日。

[5] 聖ホセマリア『拓』726番。