心の整理整頓

「成熟した人がもつ特徴の一つは、多くの活動に従事しながら心の平和と秩序を保つことである。の平衡感覚を持つには、並々ならぬ努力を必要とする。」この点についての記事を提供します。

聖アウグスティヌスが晩年に「あらゆるものの平和は秩序の静けさである」(『神の国』XIX、13、1)と書いたとき、長年膨大な仕事に追われていた自分の経験に基づいていた。自己に任せられた神の民を牧者として導く仕事、膨大な説教、古代の社会と文化が崩れいく激動の時代の挑戦を受けて立つことなどである。この言葉は、日々の喧噪とは無縁の静かな瞑想の中で書かれた金言ではなく、予断を許さない変動を生きる中で書かれたのである。この聖人の確固たる人格は日々の努力の結晶であった。一日一日を「目標に到達しようと」努力を続けることによって、自己の性格をますます堅固にしていったのである。

成熟した人がもつ特徴の一つは、多くの活動に従事しながら心の平和と秩序を保つことである。この平衡感覚を持つには、並々ならぬ努力を必要とする。聖ホセマリアもこの点について触れている。ある人が忙しくて自分の形成に気を配ることができないと話したときこう言っている。「あなたが私の状況を知ったなら。私もまた二足以上のわらじを履いています。この無秩序の上に、秩序を打ち立てねばならないのです」と。秩序だった生活をすることは、日々の戦いで獲得していく戦利品と言えよう。「快くはないが急を要する仕事から始めること、(・・・)あまりにもあっさりと放置しがちな任務を遂行するための忍耐、今日すべきことを翌日まで延ばさないなど、すべては父なる神に喜んでいただくためです」(『神の朋友』67番)。

写真: Cybrarian77

克己(自己を律する)

この静かな戦いは身の回りにある物品や日々の所用だけでなく、私たちの心そのものの態度とも関係がある。このように自覚した心がなければ、秩序は単に時間をよく活用することや効果的な働き方をすることになるだけで、真のキリスト教的成熟を示すものではなくなる。キリスト信者の確固たる人格とは、考えから行いに、また行いから考えへの絶えざる行き来の上に建てられ、自己を支配することによって、外的活動を秩序づけようとすることによって、また内的な潜心と賢慮によって成長する。

この内的調和を得るのを妨げる障害もすぐ目に入ってくる。頭で信仰に従った生活はすばらしいと悟ったとしても、それの邪魔になる様々な傾向、時には正反対の傾向を感じることだろう。聖パウロはこう叫んでいる「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります」(ローマ7,21~23)。私たちはしたいこととせねばならぬこととの間で分裂しているように感じ、時には目が曇ってはっきり見えなくなる。そうなると、ともかく少しぐらい道を逸れてもかまわないではないかと思うことすらある。それは本当のところは愛が揺らいでいる状態なのだが。

しかし、我らの主がナタナエルに言われた褒め言葉が思い出される。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(ヨハネ1、47)。良心の中で響く神の声に従って生きようとする人には自ずと敬意を感じてしまう。首尾一貫している人は、彼らのすべてが本物だから、それを見る人を引きつけずにはおらない。反対に、裏表のある生活、埋め合わせ(たとえ非常に些細なものでも)を求める生活、正直さに欠ける生活、これらは魂を曇らせる。わたしたちは皆これらの小さな逸脱の危険にさらされているので、心がけるべきことは正直に逸脱を認め、そのたびに道に戻ろうとすることである。そうすれば、人生の荒海の中で、舵を失った船のように波風に翻弄されるという危険を免れることができよう。

写真: Trevor Haldeny

神の望まれるポリフォニー

内面に秩序をもたらすとは、知性が想像力を「支配し」、感情や好みをコントロールするだけで十分ではない。知性の同伴者ともいえる感情や想像力といった能力がどのように、またどこまで働くのかをよく知る必要がある。たとえを用いるなら、神は知性だけが歌う独唱でなく、想像力や感情や情緒などの声部からなる多声部合唱を望まれている。このポリフォニーに不協和音が生じた場合、そのなかの一つの声部を消すことで修正するのではない。昔から節制の徳として知られた克己は、感情などを押し殺して知性だけが支配する冷たい知性中心主義ではないのである。神は私たちが「大きくて強い心、若々しくてやさしく繊細な心」(『神の朋友』177番)を持つことをお望みなのだ。

そういう心をもって初めて主がお喜びになる合唱をすることができる。もしきれいな合唱にしたいなら、音程を合わせねばならない。つまり、情緒を教育し、真実に善い物や美しい物に感じ入る感受性を培うことである。感情は私たちの生命に彩りを与え、周囲に起こる出来事をよい豊かに感じ取ることを可能にしてくれる。しかしながら、けばけばしい色を塗り立てた絵が不快であるのと同じように、あるいは調律されていない楽器が不愉快な音を立てるように、感情に流されるままの心は人格の調和を破壊し、ときに荒々しく隣人との関係を損なう。

聖ホセマリアは心を「七つのかんぬき」で閉じるように勧めていた(『道』161、188)。あるときこう説明している。「私が勧めるように、心を七つのかんぬきで閉じなさい。それぞれが七つの罪源の一つ一つのためです。しかし、心を捨て去ることはないようにしなさい」(1974年6月30日、サンチアゴ・デ・チリでの団らん)。何世紀にもわたる人類の経験によって、非キリスト教文化圏の人々も、感情と本能が野放しになれば、氾濫した流れのように私たちを翻弄し、行く先々で破壊行為を働くことがわかっている。流れを食い止めるのではなく、山々から流れ出る水をまとめ導きタービンを回して発電するように装置を整える土木技師にようにするのだ。木々や建物を根こそぎにしたかもしれない流れを別の水路に導くなら、みんな安心して暮らし、その電気を利用して光や熱を得ることができるようになる。もしこれと同じように人間本性にある本能と感情を安定した形で制御できなければ、心に平和も安心もなく内的生活などは夢物語となる。

日々の生活を整える

私たち自身の主人となるための重要な一歩が、怠け心に打ち勝つことである。怠け心は、目立たないが強いウイルスのようなもので、それをほったらかしにするならゆっくりと私たちを無気力な人間にしてしまう。怠け心は、はっきりした目標を持たない人間において、あるいはそれを持つがその方向に進もうとしない人間において、どんどん大きくなる。「決定あるいは検討を遅らせることや怠惰や怠慢が、落ち着きであるかのような思い違いをしてはならない。落ち着きは常に、懸案事項を遅滞なく検討し、解決するために必要な勤勉の徳によって補われ、完成される」(『鍛』467番)。注意を払わねばならないことに頭を使うこと、少し努力を要求することから逃げないようにすること、今できることを後にのばさないこと、これらの習性を身につければ、てきぱきと働く堅固で落ち着いた人格を築くことができる。

他方でもう一方の極端にも注意しなければならない。「子よ、あまり多くの事に手を出すな。何もかもしようとすれば、ひどい目にあう。やり遂げようとしても、果たすことはできず、逃げようとしても、逃げきれるものではない」(シラ11, 10)。成熟した人格とは、ここでは秩序正しい活動を遂行する思慮深さを意味する。生活が雑多な仕事に振り回されないようにするため、するべきことを適切な時間に配分すること、つまり、過度の厳格さを避けながら、計画に従ってその時その時にするべきことを、突然したくなることに優先させる努力が役に立つ。このようにすれば、目の前のことで頭がいっぱいになって重要なことを忘れるような事態を避けられる。もちろん、すべてを計画するには及ばない。しかし、次々と起こる問題に翻弄されて一日を過ごし結局時間を無駄にしてしまうことは避けねばならない。「私たちは一度にすべてのことをする時間がないので、計画を立てることが必要だ」(聖ホセマリア、『指針、1936年5月31日』41,注61)。

一日の中にあらかじめ時間を決めておくべき大切な時がいくらかある。例えば就寝の時、起床の時、神とだけ過ごす時、仕事の時、食事の時など。これらの他は、やるべきことをよく果たす、つまり結果を出すように、心を込めて完全に果たす、一言で言うなら愛によって果たすための時間である。「各瞬間の小さな義務を果たせ。なすべきことを果たし、また、していることに没頭せよ」(『道』815番)。要するに、これが聖性のプログラムである。それは四角四面で窮屈なものではない。なぜなら、そうする目的は、神と隣人に仕えるという大きなものだからだ。敢えて一定の計画に縛られるのは愛のためであるが、同じ愛のために隣人の必要を鑑みて、必要な時はその計画を変更する。神の御前で生きようとする人には、いつそうすべきかがはっきりとわかる。

写真: Roundedbygravity

内的な空間を育てる

人の内部の精神世界は、その人に力を与え生き生きとさせる核のようなものであり、それのおかげで人の活力と資質と心構えと行動が一つにまとめられる。自分の内的世界をもち、魂の諸々の能力を統一し、それらを落ち着かせることができる人は、より豊かなパーソナリティーを育むことができる。なぜなら、その人は隣人と意味のある会話ができ、その結果より深い関係を結ぶことができるからだ。ベネディクト16世は言われる。「沈黙はコミュニケーションに欠かせない要素です。沈黙がなければ、豊かで内容を伴うことばは存在しえません」(「世界広報の日のメッセージ(2012年5月13日)。

空虚で薄っぺらな生活に甘んじないためには、自分に起こる出来事、自分が読んだこと、人から言われたこと、そしてなによりも神から受けた光について考える時間を持たねばならない。内省するということは、自己の内部の空間を広げることである。つまり、仕事や人間関係や休息など、生活の様々な側面を一つにまとめ、主に助けられキリスト教的生活を送ることを可能にしてくれる。内省の習慣は、私たちが軽薄さや忍耐の不足や注意散漫に陥ることを避けさせ、そっと魂の内部に入り込むことを教えてくれる。こうして、神の御前で黙想をするために必要な落ち着きが得られる。「私たちはみな、夜一日を終える前に、一人になって次のように自問すべきです。今日は私は何を考えたのか。私に何が起こったのか。私の心にどんな考えが浮かんだのか、と」(教皇フランシスコ、2014年10月10日の講話)

この精神の落ち着きは、目の前の問題だけに没頭することをやめ、懸案問題に注意を向け、想像力をコントロールするときに得られる。つまり、外の世界に釘付けになっている目を閉じ、外面的にも内面的にも沈黙するときである。このようにすると、様々なものを眺め、驚き、精神的善を味わい、神に耳を傾けることを学ぶ。その結果、私たちの知識と経験は深みを持つようになる。この内的な豊かさをもつなら、社会に出て行くとき、隣人との付き合いをより楽しむことができる。というのは、他人に差し出す価値のある何かを、私にしか与えることのできない何かを持つからである。

沈黙の中で、人は神の声を聞くことができる。神がホレブの山で預言者エリアの前を通り過ぎられたとき、聖書によれば、岩を砕くような嵐の中にも、地震の轟きの中にも、火の中にもおられず、ほとんど気づかれないようなそよ風の中におられた(I列王記19、11~13)。沈黙するということはすばらしいことだ。沈黙は空虚とは全く異なるもので、それが神との親密な会話を可能にするとき、本当に充実した活動となる。「一条の沈黙の音色。愛に固有な沈黙の音色とともに主は近づかれます」(教皇フランシスコ、2013年12月12日の説教)。

写真: Codydavisphotos

心の知恵

「心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる」(格言16, 21)。心を静めることができるなら、わたしたちの行動の理由をよりはっきり意識することができるようになる。確固たる人格が成熟するのは、ちょうど果実が太陽に照らされて熟するようであり、熟した人格には正しい判断を下す知恵が果汁のように注がれる。

問題が起こるといつも即座に回答を与えなければならないわけではない。知恵ある人は、しばしば判断や決定を下す前に、しっかりとデータを集めるよう努める。なぜなら、物事の真の姿は最初に受ける印象とは異なることが多いからである。成熟した人の特徴は、注意深く問題を検討し、過去に経験した類似のケースを思いだし、助言を与えることのできそうな人に相談することである。そしてなによりもまずキリスト信者にとって自然なことは、神に助言を願うことである。「何を決めるにしても、いつも、神のみ前でゆっくりと考えてからにしよう」(『道』266番)。こうすれば、軽薄さや横着さに陥ることことも、過去の経験や周囲の雰囲気に引きずられることもなく、個々の状況で賢明な判断を下すことができる。ある決定を下す勇気 -たとえその決定が危険を伴うものであっても- と、その決定を即座に実行に移す勇気を持ち、万一あとで決定が間違っていたとわかったときは、それを改める心構えをもつことができる。

内面を深めた結果であるキリスト教徒の確固たる人格は、一つの理想に人生を賭け、それに堅忍することを可能にしてくれる。「私自身にかかわるすべてを放棄するため、恩寵をお恵みください。私は御身の栄光、つまり御身の愛以外のことを心配すべきでないからです。すべては愛なる御方のために」(『鍛』247番)。