教皇ベネディクト16世−特別インタビュー

教皇ベネディクト16世は、8月5日、カステルガンドルフォで、バチカン放送局、バイエルン放送協会(ARD)、ZDF、ドイチェ・ベレによる共同インタビューをお受けになった。インタビューの問答はドイツ語で行なわれ、教皇はこの中で、今年9月に控えたドイツ・バイエルン地方司牧訪問をはじめ、キリスト教や、ご自身の教皇職などについて、幅広く語られた。その内容は以下のとおり。

El Papa, con los periodistas.

問) 教皇様は9月にはドイツ、さらに正確にはバイエルン地方を訪問される予定です。教皇様は故郷が懐かしいのだという人々もいますが、今回の訪問では特にどのようなテーマについて、また「故郷」という価値についてどのように話されるおつもりですか。

答) もちろん今回の訪問は私自身が望んだものです。それは自分が育った場所を訪ねたり、私の人生の中で出会った人々に会って感謝を表したかったからです。当然、立場上、故郷という範囲を超えて、普遍的なメッセージをも述べるつもりです。もっとも根本的なテーマは神、それもどのような神でもいいわけではなく、人間の顔を持った神を再発見しなければならないということです。なぜなら私たちがイエス・キリストを見る時、神を見ることになるからです。この事実から出発して、出会いの道を家庭の中の異なる世代間に、また異なる文化や民族の中に見出していかなければなりません。また、この世界における和解と共存の道、そして未来に向かう道を同じように見つけなければなりません。未来に向けてのこの道を私たちは上からの光を得なければ決して見出すことはできないのです。特別なテーマを選ぶわけではなく、典礼に沿って信仰についての根本的なメッセージを述べ、その中で今日的なテーマを挿入しつつ、民族間の協力と和解と平和への道を皆が模索する必要性を説きたいと思います。

問) 教皇様は全世界の教会の責任者です。しかし、今回の教皇様のドイツ訪問は、多くの人の注意をドイツにおけるカトリック信者たちの現状に向けることになるでしょう。今ドイツの教会は、自国から教皇が選出されたこともあり、大変良い状態にあると皆が言っています。もちろん昔からの問題もまだ残っていることと思います。たとえば実践信者や洗礼数の減少、特に社会生活の対する教会の影響力の減少の問題があります。今日のドイツのカトリック教会の現状を教皇様はどう見ておられますか。

答) まず、第一に私はドイツは西欧世界に属しているのだと言いたいと思います。今日の西欧世界には新たな形の啓蒙主義と世俗化の波が大きく押し寄せています。信じるということがますます難しくなっています。なぜなら、今私たちが生きている世界は完全に人間自身が作ったもので、いわばこの世界にもう神が直接に介入する場がもうないのだといえるくらいだからです。もう泉から直接飲むのではなく、いっぱいに満たされた器から水を飲むようなもので、万事がこの調子です。人間は自分たちのためにこの世界を創り直し、この世界の背後に神を見出すのはますます困難になってしまいました。この現象は何もドイツだけのものではありません、全世界に共通のものであり、特に西欧世界では顕著な現象です。一方で、神に関する西欧世界のあまりの冷たさに恐れをなして、西欧自身が他の文化、特に宗教的な源を持つ文化の強い影響を受けています。様々の文化の交差する場に今私たちは立っているのです。西欧世界またはドイツに生きる人々の心の奥底からはいつも新たに何か「より偉大なもの」に対する要求が再び湧き上がっています。若者たちの間では常に「より以上」に対する探求心が見られます。たとえそれが不確定な一種の運動であったとしても、ある意味では非常に宗教的な現象も見られます。このような現象の中で教会は再びその存在感を増しています。信仰は一つの回答としてその姿を示します。私は、今回の訪問は、ケルン訪問と同様、信じるということは素晴らしいということ、普遍的な大きな共同体の喜びは大きな影響力を持ち、その後ろには何か非常に重要なものがあるのだということを示すものとなると思っています。

問) ちょうど一年前、教皇様はケルンで若者たちとの出会いに参加されました。きっと教皇様ご自身も、若者たちが非常に開かれた心を持っていることにお気づきになったことと思います。教皇様もケルンでは若者たちから大歓迎を受けました。今回の訪問でも若者たちのために特別なメッセージをお持ちになりますか。

答) 共にいたい、信仰の中に共に留まりたい、何か良いことをしたい、という若者たちがいるのを私は大変うれしく思っています。多くのボランティア活動を見るだけでもわかるように、若者たちの間で善行に開かれた心構えは非常に強いものです。この世界の中で必要に迫られている人々のために自分自身を捧げたいという心構えは大変偉大なことです。まず、第一にすべきことは「前進しなさい」と励ますことです。善をする機会を探しなさい。世界はこの意思をこの奉仕を必要としています。また次のことも特に必要でしょう。決定する勇気をもつことです。若者たちは大きな寛大さを持っています。しかし、同時に、結婚生活にせよ司祭職を選ぶにせよ、その全生涯を左右する大きな賭けを目の前にして恐れを感じることもあります。世界は絶えず動いています。どうなるかわからない将来に向けて私の一生を全部捧げ尽くせるものなのか、自分の自由を自分で縛ってしまうことにはならないだろうか、もう自由に動けなくなってしまうのではないだろうか、などという心配が起こりうるのです。あえて決断する勇気を目覚めさせることが必要です。事実、この決断だけが成長を可能にし、前進させ、人生において何か偉大なことを実現させることができるのです。また、この決断だけが自由を破壊することなしに、かえって正しい方向性を与えるものなのです。いわば決断へのこの飛躍を覚醒すること、それによって人生を実現すること、このことを若者たちに伝達できたら、それは私にとって大きな喜びです。

問) 政治問題について質問します。この数週間、中東における平和への希望はますます小さくなってきています。現状において聖座に何ができるとお思いになりますか。中東問題改善のためにどんな積極的な影響力を持つことができるでしょうか。

答) もちろん、私たちにはいかなる政治的な可能性もありません。また政治力を持つことを望んでもいません。私たちはキリスト教徒たちや、聖座の言葉に耳を貸そうとするすべての人々に、戦争は問題解決の手段としては皆にとって最悪のものだと理解するよう全力を尽くしなさいと呼びかけたいのです。戦争は誰にも何の善ももたらしません。一見勝利者と思われる人々にさえです。私たちはこのヨーロッパで起こった二つの世界戦争を通してそのことを十分知っています。すべての人が必要としているのは平和です。レバノンには大きなキリスト教共同体があります。アラブ人たちの中にもキリスト教徒たちがいます。イスラエルにもキリスト教徒がいます。全世界のキリスト教徒が私に皆にとって大切なこれらの国のために何かしなければなりません。共存しなければならないという唯一の解決策を理解させるための倫理的な力があります。私たちはこの力を動かしたく思っているのです。一日も早く平和が回復し長続きするよう政治家たちはその道を見出さなければなりません。

問) ローマの司教として、教皇様は聖ペトロの後継者です。聖ペトロの職務は今日のこの時代にどのようにふさわしく示すことができるでしょうか。聖ペトロの首位性と司教たちの合議性の間の関係についてどのようにお考えですか。

答) この関係の中には、緊張感と調和が当然存在します。またそれはあるべきだとも言えましょう。多様性と一致は絶えず新たに相互関係を見出していかなければなりません。この関係は世界の新しい状況に絶えず順応していくべきです。今日、私たちはもうヨーロッパが主導的な役割を持たない多くの文化の新しい調和の中に生きています。様々な大陸においてキリスト教共同体はそれぞれの色とも言える固有の重みを持ち始めています。私たちはそれらからいつも新しいことを学び取るべきです。このために私たちは様々な手段を発展させてきました。いわゆる世界の司教たちのローマ定期訪問「アド・リミナ」です。これは今までも常に存在しましたが、聖座の各部署や私自身とよく話し合うために、今日なおいっそう利用されるべきものです。すでにこれまでアフリカのほとんどすべての司教たちと、またアジアの多くの司教らと直接に話すことができました。これから中央ヨーロッパの国々、ドイツやスイスなどの司教たちがローマを訪れる予定で、この機会を通し率直な意見の交換をし、調和の取れた関係を築いていくことができるだろうと私は考えています。教会には他にも手段があります。たとえばシノドス(世界代表司教会議)や枢機卿会議などです。私はこれらも定期的に招集し、もっと利用したいと思っています。たとえ大きな問題提起がなくても、様々な現実問題やまたその解決策などを一緒に探求していきたいと思っています。教皇はいわゆる絶対君主ではありませんが、キリストのみ声に耳を傾けることにおいて全体を一つにする者です。政治的な圧力からまったく自由であるべきです。各国独特の多くのキリスト教があるのではなく、それらを超越しすべてを一つにする多様性の一致の力が働くのです。ですから、主のみ旨と時代の要請に忠実に応えていくためにも、聖ペトロの職務に対する深い内的な一致が必要なのです。

問) 宗教改革の国としてプロテスタント諸派の教会との関係も避けては通れないと思います。エキュメニカル問題は非常にデリケートな問題であって、絶えず新たな困難に遭遇しています。プロテスタント教会との関係を改善していくために、どのような可能性、またこの先どのような困難を教皇様は見ておられますか。

答) まず、第一にプロテスタント教会と一言で言っても、プロテスタント教会はそれほど単純なものではなく、様々だと言うのは大切なことだと思います。間違っていなければ、ドイツには三派の大きなプロテスタント教会共同体があるといえます。ルーテル教会、改革教会、プロイセン統一教会です。その他にも今日いわゆる自由教会という多くの教会が生まれています。また、伝統的な教会の内部でも様々な新しい運動が沸き起こっています。ですから、プロテスタント教会といっても様々な多様性を持つ教会です。その多様性を尊重しつつ、対話を進め協力することを希望しています。まず、第一にしなければならないのは、現代社会において皆が一致して主要な倫理的方針を明確にし、実践するよう努力することだと思います。こうして社会の倫理的良心を保証することです。これなしでは政治の目的、すなわちすべての人々のための正義、共存、平和も達成することはできません。この意味では、私たちはもうかなりよい段階に達していると思います。すでに大きな倫理問題に関しては、キリスト教的・根本的な共通理解を共有していると思います。もちろん、それは神を見出すのが困難になっている世界にあって神を明かしすること、すでに言ったようにイエス・キリストのみ顔の中に神を見えるようにすることであり、倫理のよりどころとなる源泉に人々を導くこと、さらに、私たちはこの世では多くの人々との関わりの中に生きているのですから、人々に喜びを提供することです。ただこうすることによってはじめて、進化の途上での失敗作ではなく、神の似姿である人間の偉大さを前にして、大きな喜びが生まれるのです。私たちは二つの面を同時に意識していなければなりません。一つは偉大な倫理的な原理であり、もう一つは神の現存、具体的な神の現存です。もし、私たちがそれぞれの思いのままに、ばらばらにではなく、絶えず最も深いところにある土台から出発してその信仰を生きるよう努めるなら、外的な一致はすぐには達成できないとしても、きっと内的な一致は熟していくでしょう。そして、もし神がお望みになるなら、いつの日か外的にも一致が実現することでしょう。

問) 約一ヶ月前、教皇様はバレンシアでの世界家庭大会に出席されました。注意深く教皇様の言葉に耳を傾けていた人々はすぐに気がついたのですが、教皇様はこの大会中一回も「同性愛結婚」とか「妊娠中絶」「避妊」というようなことについてお話になりませんでした。これは多くの人にとって大変興味引くことでした。もちろん教皇様の意向は信仰を告げることであって、「倫理の使徒」として世界をめぐることではありません。これに関してどうお考えですか。

答) もちろんその通りです。まず言っておく必要があると思いますが、この大会中、私の話のために与えられた場面は二回、両方あわせて20分だけでした。これほど少ししか話す時間のない人が、最初からいきなり「だめ」というような話ができるでしょうか。まず、第一に何が必要かを知るべきではないでしょうか。そうではありませんか。キリスト教、カトリックは禁止事項の総体ではなく、それは積極的な選択なのです。このことは新たに強調する必要があります。なぜなら、今日このような意識は完全に消滅してしまっているからです。してはいけないことばかりが、しばしば強調されてきました。しかし、私たちにはしなければならない積極的なアイデアもたくさんあるのです。男性と女性は互いのためにできています。性欲、エロス、アガペという段階は愛の次元を示し、この成長の過程は、まず幸福と祝福に満ちた男女の出合いとしての結婚、やがては世代間の共同体を保証する家族となり、ここでは異なる世代が信頼し合い、文化の出会いも行なわれるのです。何よりも、私たちがこうありたいと望むことを強調すべきです。また、ここでは私たちがなぜあることを望まないのかというのも見えてきます。人類が生き続けていくために、男女が互いのために創られているということは、カトリック教会がわざわざ考え出したことでなく、誰もが知っていることで、それを改めて見つめ考えていく必要があると思います。堕胎については、十戒の6番目ではなく5番目「殺してはならない」にあるとおりです。これを私たちは明らかな前提として、常に主張しなければなりません。人間は母の胎内から始まり、最後の息を引き取るまで人間であり続けます。人間は常に人間として尊重されるべきです。これらのことは、最初にポジティブな話をすることで、さらに理解しやすくなるものです。

問) 先ほどの質問と関連することですが、全世界で信者たちはカトリック教会がエイズや人口過剰などの急を要する世界的問題に対応してくれることを望んでいます。なぜカトリック教会は、アフリカ大陸など、人類の重大な問題に対し具体的な解決を試みるより、倫理に非常にこだわるのでしょうか。

答) すでにこれが問題です。私たちは本当に倫理に凝り固まっているのでしょうか。私はアフリカの司教たちと対話する中でますます確信しているのですが、この分野で私たちが前進したいとするなら、根本的な問題は教育、育成であるということです。発展は人間に役立ち、人間自身も成長してこそ、真の発展と言えます。それは技術力だけでなく、倫理的な能力の成長も伴っていなくてはなりません。私たちの歴史的状況の真の問題は、技術力の信じがたいほどの急速な発展に対し、私たちの倫理的な能力の成長がつりあっていないということです。それゆえに、人間形成こそは本当に必要な処方箋であり、すべての鍵とも言え、また私たちがとるべき道でもあるのです。この形成には簡単に言って2つの側面があります。まず、第一に学習し、知識、能力、すなわちノウハウを身につけなければなりません。この面では、ヨーロッパ、またここ数十年のアメリカは大きな進歩をとげましたし、それは重要なことと言えます。しかし、ノウハウだけを広め、どうやって機械を作りどのようにそれを使うかだけを教えるとしたら、しまいには再び戦争やエイズのような伝染病を見出すことになっても、驚くには値しません。なぜなら、私たちには2つの面が必要だからです。ここでいわゆる心の形成とでも言うべきものが必要となってきます。そして、人間はこれを通して基準を獲得し、正しく技術を利用することを学ぶのです。これが私たちのしようとしていることです。アフリカ全土やアジアの多くの国々に、私たちはあらゆるレベルの学校網を持っています。そこでは、まず勉強し、真の知識、職業能力を身につけ、独立と自由を得ることができます。しかし、これらの学校において、私たちはただノウハウを伝えるだけはありません。ここでは同時に、和解を望み、破壊するのではなく構築すべきだということを知り、共存を可能とするのに必要な基準を持つ人間を育成するのです。アフリカの大部分では、イスラム教徒とキリスト教徒の関係は模範的なものです。司教たちは、対立した状況の中でいかに平和を作り出すかを考えるための共同委員会をイスラム関係者たちと作りました。この学校網と学習、人間形成は、遠くの村々まで張り巡らされている病院や支援施設網と同様に大切なものです。そして、多くの場所において、教会は戦争によるあらゆる破壊を経た後で残っている唯一の力なのです。これは現実です。治療施設では、エイズ治療も行い、その一方で、他の人々との正しい関係を築くための教育も行なうのです。様々な角度からの育成が補い合い、こうして暴力や、マラリア・結核などをも含む伝染病に打ち勝つことができるよう、まさにアフリカにおいて多くの仕事が行われているのです。

問) キリスト教はヨーロッパから全世界に広がりました。現在、多くの人々が教会の未来は他の大陸にあると考えています。それは本当でしょうか。別の言い方をするなら、ヨーロッパのキリスト教にはどのような未来があるのでしょうか。ここでキリスト教は少数の人々の個人的なものに縮小されているかのように見受けられるのですが。

答) 最初に言っておきたいことですが、ご存知のとおりキリスト教は実際には近東で始まったものです。その主要な発展は長い間そこで成し遂げられ、イスラム教による変化がもたらされた後の時代の私たちが想像するより、もっとずっとアジアにキリスト教は広がっていたのです。別の意味では、まさにそれゆえにキリスト教の中心軸は多少ヨーロッパ寄りに移ったのです。ヨーロッパでキリスト教は学究・文化の面においても発展しました。東方のキリスト教徒を思い起こす上で重要なのは、周囲の状況との関係において常に少数派とはいえ重要な位置を占めてきたキリスト教徒たちが、現在外に流出しているという危険です。キリスト教の起源といわれる地にキリスト教徒がいなくなるのは、大きな危機です。私たちは彼らがそこに残れるようにもっと助ける必要があると思います。さて、質問に戻りましょう。ヨーロッパはもちろんキリスト教とその宣教運動の中心となりました。今日、世界の歴史の中には、他の大陸、他の文化が同じ重みをもって入ってきます。こうして、教会の声の数が増えていくのはよいことです。アフリカ、アジア、アメリカ、特にラテンアメリカなど、それぞれの気質や賜物を表現できるのはよいことです。当然、誰もがキリスト教の言葉だけでなく、現代世界の世俗的メッセージにも触れており、私たち自身が経験したような骨の折れる試練も背負っています。他の大陸の司教たちは皆言います。「たとえ、ヨーロッパが一つのもっと大きなものの一部に過ぎなくとも、私たちにはまだヨーロッパが必要だ」と。私たちは、いまだに自分たちの経験、科学技術や、典礼、伝統、エキュメニズムなど、積み重なった様々な経験から来る責任を負っているのです。これらはすべて、他の大陸にとっても重要なものです。ですから、こうした意見に負けて、自分たちを哀れに思いながら「ほら、私たちはただの少数派なのだから、せめてこのわずかな数だけは守りましょう」などと思わないことです。むしろ、生き生きとした躍動力を保ち、相互に受け与え合う関係を開かなくてはなりません。こうすることで私たちにも新しい力が与えられるのです。今日、ヨーロッパにはインド人やアフリカ人の司祭がいます。カナダでも、多くのアフリカ人司祭がとてもよい仕事をしています。これこそ、互いに与え合い、受け取り合うということです。もし、将来私たちがもっと多く受け取るなら、私たちもまた、勇気とさらなる躍動をもって、与え続けなくてはなりません。

問) すでに少し触れた話題ですが、政治や科学をめぐる重要な選択において、現代社会がキリスト教や教会の価値観に方向づけることはなく、世論調査からもわかるように、教会の声は警告的なもの、あるいは足を引っ張るものと捉えられているようです。教会はこうした保守的な立場から、未来とその構築のためにもっと前向きな態度を取るべきではないでしょうか。

答) どのような場合にも、私たちのすべきことは、こうあって欲しいというポジティブなことがらに光をあてることではないでしょうか。これを私たちは特に文化的・宗教的対話の中でしなければならないと思っています。前にも触れましたが、アフリカ大陸において、アフリカの精神は、またアジアの精神は私たちの論理性の冷たさに怖れをなしているように見えます。重要のなのは、私たちはそれだけではないということを彼らにわかってもらうことです。また、同時に、世俗的な現代世界に対し、キリスト教信仰はさまたげではなく、他の世界との対話の架け橋であることに気づいてもらうことです。純粋に理性的な文化が、その寛容さゆえに、他の宗教へのアプローチを容易にするというのはおかしな話です。そこには、大抵、入って行きたい世界に対する接続点ともいえる宗教的中身が欠けているのです。ですから、私たちはこの新しい多様的文化に対して、神から切り離された純粋な理性だけでは十分でなく、神が理性と調和するもっと広い理性が必要なことを示して見せるべきです。そして、ヨーロッパで発展したキリスト教は、体系的で理解しうる方法をも持って、理性と文化を結合したことを知らなくてはなりません。私たちが持つこのみ言葉は、いわゆるがらくたに属するのではなく、まさに今日必要とされるものなのだということを示すという意味で、我々は大きな課題を背負っていると思います。

問) 教皇様のご旅行についてお話ししましょう。教皇様はバチカンにいらっしゃるので、人や世間から多少隔離されざるを得ないと思いますし、この素晴らしいカステルガンドルフォにおいてもそうではないかと思うのです。教皇様はもうすぐ80歳になられます。教皇様は、神の助けをもってこれからもたくさんご旅行できるとお思いになりますか。なさりたいご旅行の計画はありますか。聖地、ブラジルについてのご予定はすでにおありですか。

答) 本当を言えば、私はそれほど孤独ではないということです。もちろん、人の行き来を難しくする「壁」はありますが、まず何よりも教皇公邸付きの職員たちがいますし、特にローマにいる時は毎日いろいろな訪問客があります。司教たちがやってきますし、他の人たち、例えば国家元首らの公式訪問がありますし、また政治問題以外にも個人的に私と話したい要人たちもいます。ありがたいことに、こうした意味でいろいろな出会いが次々と与えられます。それにペトロの後継者の座が人々の出会いの場となるのは素晴らしいことだと思いませんか。ヨハネ23世の時代から、教皇の出会いの場は別の方向にも移りました。教皇たちが外に出かけるようになったのです。私は大きい旅行で予定表をいっぱいにするほどの体力があるとは思いませんが、メッセージを伝えたい所、それに本当に答えてくれる所には、私の体力に可能な「手加減」を加えた上で、ぜひ訪問したいと思っています。すでに予定されているものもあります。来年、ブラジルでラテンアメリカ司教評議会の会合がありますが、これは今まさにラテンアメリカが置かれた状況において重要な機会になると思います。また、聖地も訪問したいと思います。平和な時代に訪問できることを願っています。そして、あとは神の御摂理におまかせしましょう。

問) もう少しこの話題についていいでしょうか。オーストリアの人々もまたドイツ語を話します。彼らは教皇様をマリアツェルでお待ちしているそうですが。

答) そう、それについては了解しています。私は、多少軽い気持ちで、単純に約束しました。それは私がとても気に入った場所だったので、私は「オーストリアの偉大なる母のもとに戻りたいものです」と言ったのです。当然、それは約束となりました。私はその約束を喜んで果たしたいと思います。

問) 私は教皇様が毎水曜日に一般謁見を行なわれるのを見て感嘆する者です。そこには5万人もの巡礼者がやってきます。それは、とても疲れることだと思うのですが、教皇様は耐えられるのでしょうか?

答) 耐えられます。優しい神様が私に必要な力をくださいます。それに温かい歓迎を見ると、おのずと励まされるものです。

問) 教皇様はさきほど、多少軽い気持ちで約束されたという話をされましたが、これは教皇職の役務にも、その様々な制約にもかかわらず、ご自分の自発性を失われないということでしょうか。

答) どのような場合でもそうであろうとします。ものごとに枠がある以上は、そこで何らかの個人的なものを守り、実現したいと思います。

問) カトリック教会で女性は様々な役割において大変活発です。女性たちの貢献は、教会のもっと高い役職をも含め、もっとはっきりと目に見えるものになっていくべきではないでしょうか。

答) このテーマについてはもちろん多くの考察がなされています。ご存知のとおり、私たちの信仰は、使徒団の構成上、女性を司祭に叙階することを認めていません。しかし、教会において役割を得る唯一の可能性が司祭になることだと考える必要はありません。教会の歴史には実に多くの役割や役務があります。教父たちの時代に始まって、中世から現代に至るまで、偉大な女性たちが決定的な役割を果たしています。教皇や司教たちに強力に意見したビンゲンのヒルデガルドを思い出しましょう。シエナのカタリナやスウェーデンのビルジッタもいます。このように現代においても、女性たちは、そして女性たちと共に私たちもまた、彼女たちにふさわしい役割を見つけるよう努力しなければなりません。現に、今日、教皇庁の官庁の中にも多くの女性がいます。しかし、教会法上の問題もあることも確かです。その意味では限界があっても、何よりも女性たち自身が、その情熱と力、その優れた特質、特にその「霊的な力」ともいえる能力をもって、自分たちの役割を見出していくことでしょう。女性たちの活躍を妨げることがないよう、私たちは神に耳を傾けなくてはなりません。そして、むしろ、聖母マリアや、マグダラのマリアに始まり、教会の中で実に効果的で有益な役割を女性たちが負うことを喜びたいと思います。

問) ごく最近になって、カトリック教会の新たな魅力が語られるようになりました。この大変に古い組織は未来においてどのような生命力や能力を持っているのでしょうか。

答) ヨハネ・パウロ2世の在位期間全体が、すでに人々の関心を引き、人々をひとつにまとめていたと言えましょう。ヨハネ・パウロ2世の死をめぐって起きた様々なことは、歴史的に何か特別なものがありました。実に何万という人々が整然と聖ペトロ広場に向かい、何時間にもわたり立ったままでいました。それは倒れても不思議ではない状態だったにもかかわらず、皆、内側からの力に支えられて耐えていたのです。そして、私の教皇職の開始があり、ケルン司牧訪問がありました。共同体的な体験が、同時に信仰の体験になるというのは素晴らしいことです。その共同体的体験が、単にどこかの場所というのではなく、まさに信仰の場所になる時、その体験はさらに生き生きとしたものとなり、カトリック教会に強い輝きを与えるのです。もちろん、こうした躍動は日常生活の中にも続かなくてはなりません。ある意味で、大きな機会に参加してそこにいることは素晴らしいことです。そこに主が現存され、すべての境界を乗り越えて皆で調和した大きな共同体を形成するのです。当然、日常生活の容易でない巡礼に耐えるだけの力をそこから汲み上げる必要もあります。そして、これらの輝ける体験から出発して生活し、それを指標としつつ、この旅する共同体に他の人々も加わるようにと招けるようでなくてはなりません。ここで、この機会を借りて言いたいことがあります。私のドイツ訪問に対して皆さんが準備してくださったすべてのことに、顔が赤くなるのを感じます。私の家は新しく色が塗られました。ある職業訓練校が、塀を直してくれました。福音教会の宗教の教授が、家の塀の修理に協力してくださいました。これはほんの一部ですが、なされた多くのことを表すしるしです。私はこれらを素晴らしいことだと思います。これは私のことを言っているのではなく、信仰に基づくこの共同体の力、すべての人のために奉仕したいというその意思の素晴らしさを言っているのです。連帯を表すこと、主から導かれるままにいること、これは感動的なことで、それゆえに心から感謝したいと思います。

問) 教皇様は、先ほど共同体的体験についてお話しになりました。今回、教皇様は選出後、2回目のドイツ訪問をされます。世界青年の日大会、またおそらくサッカーW杯に向かう中で、ドイツの雰囲気はある意味で変わったといえます。ドイツ人はもっと世界に対して開放的になり、より寛大、より陽気になったという印象があります。教皇様は私たちドイツ人にこの先どのようなことを願われますか。

答) もちろん、第2次世界大戦後からすでに、ドイツ社会、またドイツ人のメンタリティーの内的変化は始まったと言えます。それは東西の統一でさらに強められました。私たちは国際社会にもっと深く組み込まれていて、それはまた国際社会のメンタリティーの変化でもあるのです。こうして、ドイツ人の性格の最初は知られていなかった部分にも光があてられるようになりました。たぶん、私たちはいつでも皆が皆、規律正しい控えめな性格として描かれ過ぎていたのでしょうし、それにはある種の根拠がないこともありません。でも、今、皆がそれを前より良く見てくれるとしたら、それは素晴らしいと思います。ドイツ人は慎重で、時間に正確で、規律正しいだけではなくて、自然で、陽気で、歓待する人々でもあるのです。これはとても素晴らしいことです。この良いところをさらに成長させ、キリスト教信仰からも活力と耐久性を得て欲しいと、私は願っています。

問) 前教皇ヨハネ・パウロ2世は、大変多くのキリスト者を福者と聖人として宣言されました。それは少し多すぎるのではないかと考える人たちがいたほどです。私の質問したいのはここです。列聖・列福は、これらの人物が真の模範だと考えられてこそ、教会に何か新しいものをもたらします。ドイツは他の国々に比べると、聖人・福者をあまり輩出していないと思います。この司牧的側面を発展させるために何かできるでしょうか。また、なぜ列福・列聖の必要性が真の司牧的実りにつながるのでしょうか。

答) 最初は、私も多数の列福が私たちを押しつぶすのではないかと考え、私たちの意識によりはっきりと印象づける人物を、もっと選択する必要があると多少考えていました。そのうちに私は、その福者にゆかりのある土地において、福者の人となりが毎回はっきりとわかるようにと、列福式を各地方に分散させました。たぶん、グアテマラの聖人はドイツ人にはあまり関心がなく、逆にアルトエッティングの聖人は、ロスアンジェルスでは興味をもたれないという風ではないでしょうか。また、私は列福式を地方で行なうことは、司教団の合議性にも適合するものであるし、様々な国の福者に光をあて、それが特にその国における司牧に効果的であるという意味でいいことだと思います。地方で行なわれるこれらの列福式に非常に多くの人々が参加するのを私は見ました。人々は「とうとう、私たちから福者が出た」と言い、彼のところへ行き、そこで信仰の光を得るのです。福者は彼らのものであり、私たちはそれが多くいることを嬉しく思います。そして、国際社会の発達によって、彼らだけでなく、私たちもまた、これらの福者たちをより良く知ることができるようになれば、それは素晴らしいことです。ここにおいても重要なのはその多様性であり、私たちドイツ人も自分たちの福者をよく知り、彼らについて喜ぶべきです。列福式の近くにはさらに偉大な聖人たちの列聖式もあります。これは教会全体に光をあてるものです。私は思うに、各司教協議会はより良い選択をし、何が自分たちに合っているのか、何を伝えたいのかを見きわめて、これらの福者、それもあまり多すぎてはいけませんが、彼らが深い印象を残すように、その姿をはっきりと浮かび上がらせなくてはなりません。それは、カテケーシスの中でも、説教の中でも、たぶん映画の中でも可能かもしれません。私は素晴らしい映画を想像できます。もちろん、私がよく知っているのは教父たちだけですが。例えば、アウグスチヌスについての映画、また、ナジアンズのグレゴリオの映画、彼の特殊な生涯、次々にのしかかる大きい責任から逃げようとする姿など。いろいろ研究する必要があります。今日の映画は不振な状況だけということはありません。その中には素晴らしい歴史的人物も描かれていて、それは退屈どころか現代にも通じるものです。ともかく、人々に必要以上に詰め込むのではなく、現代に通じ、共感を与える多くの人物に光をあてることだと思います。

問) 歴史にはユーモアもあるのでしょうか。1989年、ミュンヘンにおいて、教皇様はカール・ヴァレンティン・オールデン賞を受け取られました。教皇としての生活の中でユーモア、軽さといったものはどういう役割を持っているのでしょうか。

答) (笑いながら)私は次から次へと笑い話が頭に浮かんでくるような人間ではありません。しかし、人生のおもしろい面や、喜びに満ちた面も見ることができるということ、すべてをそれほど悲劇的に捉えないということは、とても大切だと思いますし、それは私の教皇職の中でも必要なことだと思います。ある作家が言っていましたが、天使たちが飛べるのは、彼らがそれほど思いつめないからだと。私たちもこだわりすぎなければ、たぶんもっと羽ばたけるのかもしれません。

問) 教皇職のような重要な仕事を担う上で、人々から注目されることも多くなると思います。皆、教皇様を話題にしています。記事を読みながら驚くのは、多くの人々が教皇ベネディクトはラッツィンガー枢機卿とは別の性格を持っていると言っていることです。もし、可能なら、ご自分についてどう思われているのかをお聞かせください。

答) 私はすでに何度も区分されてきました。教授時代の初期、教授時代の中期、そして枢機卿時代の最初の頃と、後の頃という具合です。そしてまた新たな区分が加わったわけです。当然、いろいろな責任を負う中で、環境や状況、人々の影響も受けます。しかし、何といいますか、私のパーソナリティー、そして私の基本的なものの見方は成長したとしても、すべての本質的なものはまったくこれまでどおりです。これまであまり知られていなかった面も今注目してもらえるようになったというのは嬉しいことです。

問) 教皇様の任務はお好きですか、重荷ではありませんか?

答) 重荷というのは少し言い過ぎかもしれません。なぜなら、実際それは大変なことなのですが、いずれにせよ私はここにも喜びを見出そうとするからです。

記者代表 : 私の同僚たちをも代表して、このインタビューに心から感謝を表します。私たちはドイツ・バイエルンへの教皇様のご訪問を歓迎します。またお会いいたしましょう。

「バチカン放送局提供」