第一章:この世界を愛した司祭 (11Q06)

1.私は無価値なみじめな者、しかし価値ある愛で一杯の者 (11Q06)

  11Q06 - しかし、エスクリバー・デ・バラゲル師は、自身の過ちを苦しみ、その思いを、「無」とか「みじめ」とか「弱点」などという強い言葉で表わしておられましたが。

11A06 - 過失に気づくと、愛ゆえに苦しみましたが、それと同時にもっと恩寵に頼るようにしました。「私は無である、何も持っていない、何もできず、何の価値もない。ほんとうに無に等しい存在だ。しかし、主と一緒なら全てが可能である。使徒が次のように言っている。<私を強めてくださる方のお陰で、私には全てが可能です。>(フイリッピ4,13)」これは、多くの人々に、コンプレックスや悲しみ、悩みや内的戦いであきらめないよう教える言葉です。主は欠点込みで人々に生を与え、同時に、聖性にお呼びになったのですから、主と一緒なら全てが可能なのです。

常に素直な道具でありたいと願っていました。1962年に次のように言っています。「神の御働きに委ねなければなりません。自己の弱さや欠点を超えて、主に信頼することです。この世の事柄には、評判とか個人的な名誉等も含めて、重要だったり必要だったりするものは何一つありません。何年も前に主に近づき次のように申し上げたことがあります。御身が私の名誉をお望みでないのなら、どうして私がそれを望みましょうか。このように、私は確信をもってオプス・デイが神のものであると断言できます。私は何もしませんでした。邪魔をするばかりでした。それゆえ、全身全霊を傾けて、平安のうちに主に赦しを願うのです。オプス・デイの面倒を見るのは主だからです。私は日増しに神の御前で無になる必要性を深めています。そう感じますから。無だと。」

これが御自分に対する認識でした。1970年3月、次のように確証しました。「私たちの個人的な力はただ、弱さの一言に尽きます。私は全生涯を通じてそれを体験しました。私たちは自分の弱さにはっきり気がつく時のみ、強くなれるのです。自分自身の強さを頼りにするなら、すぐに悪臭極まりない堆肥場に転がり込んでしまいます。」

自分は無に等しく、役立たずの道具だと思うからといって、義務を放棄したりすることなどありませんでした。自己の様々な欠点を口実に、気力を落としたり、祈りの熱意を失ったりはしませんでした。それゆえ、1972年3月6日、次のようにきっぱり言ったのです。「〈医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。(マタイ9,12) 〉 この章句が私の一日の祈りでした。主よ、私は慢性的な病人です。あなたが必要です。」