第一章:この世界を愛した司祭 (11.Q01)

1.私は無価値なみじめな者、しかし価値ある愛で一杯の者 (11.Q01)

11.Q01 - 私には、思い出深い場面があります。1972年11月22日、人であふれたブラファという学校の体育館で、エスクリバー・デ・バラゲル師との団欒があったときのことです。体育館は講堂に変わり、創立者は舞台の真中に立っていました。聴衆の一人が、毎日の出来事に不平をこぼしながら過ごしている人について話し、「パドレ、このように、非難したり嘆いたり、悲観的に考える人をどのように手伝ったらいいのでしょうか。」と質問しました。すぐに答えがありましたが、自己の弱さに基づく理解に満ちたものでした。「私には多くの欠点がありましたし、今でもあります。欠点のない人が居るのでしょうか。もし、そういう人 が居たら博物館に収めましょう…。私は、少年時代から多くの欠点と戦ってきましたが、この戦いは一生続くでしょう。」

オプス・デイの創立者を見ると、1990年に教皇ヨハネ・パウロ二世が宣言されたように、諸徳を英雄的なレベルまで実行するに至った人に特有なことでしょうが、欠点はその素晴らしい戦いの中に隠れて周りの人には見えません。しかし、他の人は気付かない怠りや、時としてそれを濃やかさの不足といえば、人々には大袈裟に見えるようなことに、創立者のような神への愛に心酔した心は鋭く反応します。これは、1975年の司祭叙階金祝にあたり、深い謙遜のうちに、ご自分を「片言しか言えない幼子」のように感じていた彼が、マニフィカト(‘主のはしため’としての謙遜に満ちた聖母マリアの賛歌)を、心のうちで永遠に繰り返していたとしか、説明しつくせないものです。

オプス・デイの創立者にたまにしか会わない私たちには、その欠点は隠れて見えず、ただ神のみ旨にしっかりと従う姿に惹きつけられるだけでした。1950年のカステルガンドルフォでの研修会の思い出によると、ハビエル・エチェバリア司教も同じ事を経験されたのですね。

 

11.A01 - 8月の末頃でした。私は、自分たちが涼しい所で過しているのに、モンセニョール・エスクリバー・デ・バラゲル師は暑いローマに居るということに気付きました。毎日午後5時頃、ドン・アルバロともう一人と一緒に、トポリーノ(車名)で私たちのところへ来てくれていました。そこで研修を受けていたイタリアの最初の頃のオプス・デイのメンバーと私達他の国から来ている者たちの形成に自ら携わるためでした。

私たちがどのように日々を過ごしているか尋ね、様々な面から聖性の戦いを説明し、オプス・デイの精神を教えました。これは通常の一日の仕事が終えてからのことでした。師にはオプス・デイの統治の仕事に加えて、本部が建設中で、しかも、乏しい資力の中の非常に困難な工事を気遣う、という仕事がありました。

 当時、私は、パドレが大きな荷を肩にし、重い糖尿病からくる疲れに苦しめられていることに気づきませんでした。その喜びと、自分の事を顧みない献身を私たちに生き生きと伝えようと、師は愛と捧げる心でこれらの難儀を乗り越えていたのです。