​50.イエスはいかなる政治的な考え方をもっていましたか?

イエスは政治的な暴動を扇動したとしてローマの統治者へ告発されました(参照ルカ23,21)。総督ピラトは、熟考する一方で、次の理由で死刑に処するようにとの圧力を受けました。

「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない、王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(ヨハネ19,12)。それゆえ、十字架刑の罪状札には、処刑の理由として「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれたのです。

イエスは正義、愛、平和の国である神の国を宣べ伝えましたが、告発者たちはそれを口実として、イエスの教えはローマにとって問題を引き起こすことになると主張しました。しかし、イエスは直接的に政治には参加せず、また当時のガリラヤやユダヤに住む人々の政治的な意見や行動に同調せず、また、いかなる党派や体制にも加担しませんでした。
このことは、イエスが当時の社会生活にかかわりのある重要な問題に注意を払わなかったということではありません。実際、イエスは病人、貧しい人、困窮者などをなおざりにしませんでした。正義を説き、なかんずく、わけ隔てのない隣人への愛を説きました。
イエスが過越祭に参列するためにエルサレムに入ったとき、群衆はイエスをメシアとして歓呼の声を上げ、その歩調に合わせて叫びました。「ダビデの子ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ21,9)。それにもかかわらず、イエスは人々がメシアに描いた政治的な期待には応えませんでした。直面している状況を武力で変えるために来た戦闘指導者でもなく、ローマの権力に対して蜂起をうながす革命家でもなかったのです。
イエスのメシアについての考えは、イザヤが預言した苦しむ僕の賛歌(イザヤ52,13‐53,12)に照らして理解されるもので、多くの人の贖いのため自らを死に差し出すというものだったのです。聖霊に導かれた初期のキリスト教徒は、起こった事柄を熟考するに従って、はっきりとそのことを理解したのでした。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった』。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(1ペロト2,21-25)。
近年出されているイエス伝の中には、当時の政治情勢に対するイエスの態度を理解する上で、彼が選んだ12使徒の多様性に注目しているものがあります。とりわけ、熱心党と呼ばれるシモン(参照ルカ6,15)は常に引き合いに出されます。そのあだ名が示すように、このシモンは急進的なナショナリストであったとされ、ローマからのユダヤの独立のために戦っていたと考えられるのです。また、この地域の言語に詳しい研究者の中には、イスカリオテのユダに関して、そのあだ名iskariotはラテン語の「暗殺者」を意味するsicariusがギリシャ語に広まった言葉ではないかと指摘し、これはユダがユダヤ・ナショナリズムの最も過激で暴力的なグループの支持者であったことを示しているのではないかと考えています。その一方で、マタイはローマ帝国のための徴税人(publicanus)で、彼はローマ帝国の協力者とみなされていました。また、フィリポに関しては、その名前はガリラヤ地方に定着したヘレニズム文化圏の出身者であることを示しています。
これらの資料には、まだ議論の余地が残っているでしょうし、また、12使徒のある人物を、後に力を持つことになるある政治思想と結び付けることもできるでしょう。いずれにしても12使徒たちは、それぞれ独自の考えと態度を持つ多様な人びとであったことには変わりなく、そのような政治的な考えや社会的な地位を超越するイエスご自身の仕事に呼ばれたことを見事に示していると言えるでしょう。